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左手薬指にkiss

第1章 日常スパイス


 カチャン。
 合鍵でこの扉を開けるのももう何回目のことか。
 宮内家を伯父さん達が手続きして売り払ってから俺は大学近くにアパートを借りた。
 けれどアパートの玄関よりもこちらを開ける方が多くなっている。
 靴を脱いで大理石の廊下を抜ける。
 一人暮らしが始まるとこの家の豪華さに余計に戸惑いを感じるものだ。
 リビングと寝室とキッチン。
 合わせて四十畳ほどなのに、空間の使い方が上手いからかそれより広く見える。
 時刻は五時。
 今日は七時前に帰るって言ってたから、用意はそんなに余裕がない。
 まずは……
 荷物をソファに投げて洗面所に小走りで向かう。
「お風呂だ」

 ドライヤーをかけながら早すぎるかもしれないが心臓がバクバクしてきた。
 いつもより丹念に洗った体から香る匂い一つも気にかかる。
 なんでこんなこと思い立ったんだろ。
 昨夜には決意だった揺るがぬものが、不安という渦で崩れ始めている。
 大体さあ……
 ああ、ダメだ。
 ここで愚痴ったら本当に諦めてしまいそうだ。
 ドライヤーを切って、荷物と一緒に寝室に向かう。
 時刻は六時。
 アカに会いに行く前に買ったものをガサガサと取り出す。
 もうあれ。
 ビジュアルから慣れない。
 でもこういう処理ってしといた方がいいかなって。
 ボトルと容器を持ってトイレに入る。
 あのときに似てる。
 泊まって良いって言われたあの夜。
 すっげー嬉しそうに走ってた俺の後ろ姿を先生が撮ったあのとき。
「……う、っく。これ……キツ」
 でも今夜はずっと波乱になりそう。
 

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