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左手薬指にkiss

第1章 日常スパイス

 それから一週間後。
 教育委員会の会議から帰ってきた類沢は、相当疲れているようで、瑞希を迎えた車には煙草の煙が充満していた。

 咳を我慢して、少し好きになったその香りに包まれる。
 運転する横顔は気力がなく、今すぐ眠りたいと訴えているようだった。
 俺は黙ってただ背もたれに体重を預けた。
 家の車庫に車を入れて、エンジンを止める。
 束の間の沈黙。
「……先生?」
 ハンドルに寄りかかったまま動かない。
「降りないんですか」
 ズズ、と頬をハンドルに滑らせて類沢が此方を見る。
 ぞくりとした。
 その眼はいつもと違ったから。
 まるで俺を俺と認識してないみたいで。
 助手席に置いた物を見るみたいな。
 だがそれは一瞬で、すぐにその眼は優しく歪んだ。
「ちょっと疲れてるね。今夜は強めの酒でも入れようかな」
 微笑みながら家に向かう類沢に、なにか言いたかった。
 けど、別になにか思い付いたわけでもなかった。

 テーブルの上には空いたボトル。
 缶ビールとは度数が桁違いのヤツ。
 大学に入って少しはたしなむようになったけど、先生のお酒には手が出せそうにない。
 ソファで今日の資料を読み返す類沢を見つめて、また胸騒ぎがした。
 なんだ。
 これ。

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