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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第16章 眠れる美女

「いや、別に不満というわけではない。私は常日頃から、正直であるのが最も大切な徳の一つだと考えているからね。何より、あの者は恵里が産声を上げた瞬間から、ずっとあの子を育ててきたのだ。よほどの落ち度がない限り、今更、引き離すことはできまい」
「そうですね」
 それからほどなく、春泉は小卓を持って、秀龍の室を出た。 
 ふと空を仰ぎ見ると、ふっくらとした月が煌々と地上を照らしている。
 今宵は十三夜だった。まるで手を伸ばせば、届きそうなほどの距離に、円い月が迫っていた。巨大な月はくっきりと陰影が刻まれ、かつて見たことがないくらい紅かった。
 真っ赤に染まった月は何故か血の色を連想させる。まるで死人の血のような。
 美しいと言えば言えるけれど、あまりにも鮮やかすぎるほどの紅色は禍々しささえ感じられた。
 しばらく月を見上げている中に、ふっと昼間見た鈴寧の寝顔が紅い月に重なった。
 刹那、春泉の身体中の膚が粟立った。
別に、恐怖をかき立てるような類のものではなかったはずなのに、あの光景が途轍もなく怖ろしいもののにように思える。見棄てられた廃屋で死んだように眠る美しい若夫人の姿が眼から離れない。
 全く現実離れしたあり得ない光景だけに、余計に怖いと思うのだ。
 その瞬間、深い水底(みなそこ)からぽっかりと浮かび上がるように、春泉の中である一つの考えが生まれた。
 もしや、吏曹判書一家は、鈴寧を本当に死んだのだと思い込んでいるのではないだろうか? 仮に、あの一家が若夫人は既に死んだものだと勘違いしているとしたら?
 だとすれば、すべての事柄は、はめ込み細工のようにピタリと当てはまるはずだ。
 どこからか甘い花の香りが風に乗って漂ってくる。眼を凝らせば、夜陰にクチナシの花がほの白く浮かび上がっていた。月光に照らされたクチナシは清楚でありながらも、男を誘う淫らな女のように妖しい色香を放っているようにも見える。
 春泉はいつまでもその場所に佇んで、闇にひっそりと咲く花を眺めていた。

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