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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

     《其の四》

 懐妊が判ってからの孝太郎の態度は微妙に変わった。これまでも美空に対しては優しい良人であったが、その優しさの中に更にさりげない労りが見られるようになった。
 思いがけず孝太郎の口から出た家族という言葉を、美空は心の中で幾度も繰り返し呟いてみる。
 すると、飴玉が刻を経て、じんわりと溶けて甘さがひろがってゆくように、美空の心にふんわりとした温かなものが満ちてゆく。
 夫婦でもなく、恋人でもなく、家族。その響きの方が何とはなしにしっくりとくるような、温かな感情になれる。恋人や夫婦は互いの気持ちが冷めれば、そこで絆は絶えてしまうけれど、家族であれば、その繋がりは永続的なもののように思える。
 単に言葉一つの違いなのかもしれなかったけれど、美空にはその違いがとても大切なもののように感じられた。
 美空をずっと苦しめていた吐き気は玄庵から処方して貰った薬を服用することで、随分と軽くなった。老医者の話によれば、これは悪阻(つわり)といって妊娠初期には特有の症状の一つで、胸のつかえや嘔吐感が一定期間続くが、やがて中期に至り腹の赤児が安定期に入れば、自然に治癒するという。
 食べたくないときは無理に食べる必要はないが、今日の美空のように空腹で倒れるまで何も口にしないのはゆきすぎだとたしなめられた。ゆえに、美空は粥などの汁気の多い食べやすいものを工夫してこしらえ、食することにした。
 同じ長屋に住むお民もしょっ中顔を覗かせ、〝蜜柑なら食べられるだろう?〟と言って、籠に山盛りになった蜜柑を差し入れてくれたりする。孝太郎もあれ以来、弁当を持って出かけるのは止め、昼には美空の様子を見がてら、飯を食べに帰ってくることになった。
 そのせいもあってか、美空の腹の子は順調に育っている。何もかもがうまくいっていた。
 今年の秋には初めての子が生まれる。親子三人、肩を寄せ合い慎ましく暮らして、本物の〝家族〟を作るのだ。美空の心には明るい希望の灯がともっていた。
 更に半月が経ち、弥生も半ばになった。
 江戸はそろそろ桜も咲こうかという季節である。まだ蕾は開いてはいないが、あと十日もすれば、花開くだろう。

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