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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 その日は早朝から江戸の町の上を灰色の空が重たげに覆っていた。
 昼前、徳平店に立派な黒塗りの駕籠が横付けされた。江戸の尾張藩邸から迎えに遣わされたものである。
 既に前日、孝太郎はひと足先に藩邸入りしている。孝太郎は今や事実上、尾張藩主であり、これに先立ち、名も勇(よし)俊(とし)から孝俊(たかとし)と改めていた。若き尾張藩主徳川孝俊―、その名を聞いただけでは、その人が昨日まで一緒にいた良人孝太郎だとは今でも俄には信じがたい。だが、美空は、これからの一生涯、彼の傍で過ごすと決めたのだ。
 美空は孝太郎に遅れること一日、続いて尾張藩の上屋敷に迎えられる。
 徳平店の住人たちは、ついぞお眼にかかることのないような貴人用の駕籠を固唾を呑んで見守っている。
 それまで孝太郎と美空が暮らしていた家の障子戸が静かに開いた。きらびやかな打掛姿の美空が美しく髪を結い上げて姿を現した刹那、道の両側に居並んで一部始終を眺めていた住人たちからホウと感嘆の溜息が洩れる。
 その中に混じりながら、お民はこれで、この幼いときからよく見知っている娘が自分たちの手の届かない遠い場所に行ってしまうのだと痛感していた。
 恐らく永遠の別れになるだろう。そう思うと、いつもは朗らかで賑やかな性分のお民の胸にも込み上げてくるものがあった。
 その傍らでは源治が美空の見違えるような変貌に眼を瞠っている。
「元から別嬪だとは思ってたけど、こうして見るともう、どこから見ても立派なご簾中さまだナ」
 源治はすっかり美空に見惚れているようで、魂を奪われたかのようにボウとしている。
 一方、美空はといえば、長年住み慣れた徳平店から永久に去ることに深い感慨に囚われていた。改めて今一度、粗末な棟割り長屋を見つめる。
 自分を育んでくれた場所―、美空はここで産声を上げ、今日まで十七年間を過ごした。その間に、まだ物心つくかつかぬで母を失い、また、たった一人の肉親であった父をも失った。そして、孝太郎とめぐり逢い、恋に落ち結ばれ、今は愛する男の子をその身に宿している。
 美空はこの長屋で生まれ育ったのだ。万感の想いを込めて徳平店を見つめ、美空は自分を守り育ててくれた場所に、共に過ごした人々に向かって、深々と頭を下げた。

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