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喪失、そして再生~どこか遠くへ~My Godness完結編

第2章 ♣海の女神♣

♣海の女神♣

 少し強く踏めば、踏みつぶしてしまうのではないか? そう思ってしまうほど軋む階段を悠理は一段飛ばしで駆け、階下へ降りた。
「おはようございます」
 階段を降りてすぐの厨房を覗いても、誰もいない。狭い家の中はしんと静まり、やはり人の気配らしきものは窺えなかった。古めかしい造りの台所にはテーブルが据え付けられている。その上にやはり、悠理の部屋にもあったガラスの一輪挿しがぽつねんと置かれていた。
 純白の涼しげな浜ゆう。その穢れを知らぬ新雪のような白が一瞬、悠理の眼を鮮烈に射貫き、心を震わせた。一体、この浜ゆうを活けたのは誰なのだろう? 何故か、知りたいという強い欲求が奥底から湧き上がってくる。
 焦りは余計に募り、短い廊下を走り抜け玄関でズックを突っかけると網元の家を飛び出した。
 外に出るやいなや、真夏の容赦ない陽射しが悠理に降りかかってきたけれど、先刻眼にしたばかりの花の清(すが)しさが過酷な暑さを少しだけ和らげてくれるようであった。
 だが、そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。折角見つけた仕事を寝坊などが理由でクビにされたくはない。
 昨夜の記憶を目まぐるしい勢いで甦らせ、確か早朝、漁に出た後は近くの競り市場で獲った魚を競りに出すのだと網元が言っていたのを思い出す。丁度、七十ほどの小柄な老婆が通り掛かったので、呼び止めて競り市場の場所を訊ねた。
 ここからさほど遠くはなく、他所者にも解り易い場所だったので、幸いにもすぐに辿り着いた。
 コンクリートの上に各々の漁師が今日の戦利品を並べひろげている。目当てを競り落とそうとする男たちの野太い声が市場に次々と響き渡っていた。海の男たちの活気と熱気が満ち溢れるその場は、男の悠理の眼にも眩しく映じた。働く―海で生き、時には生命すらも賭して漁に出る男の気概とでも言えば良いのだろうか。自らの仕事に誇りと情熱をひたすら傾ける男たちの姿が尊いもののように見えたのだ。

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