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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

 恐怖と悔しさで涙が溢れた。
 父さえ生きていれば、奉公人上がりの定市にこんなふるまいをされることもないのに、と今更ながらに頼りとする父を失った我が身の寄る辺なさを思い知らされた。
 亡き父―先代の名を持ち出せば、定市の思わぬ行為を止めることができると考えのだ。
 けして夫婦の交わりは叶わぬというのは、美濃屋の先代政右衛門の遺言ともいうべき言葉であったゆえ、よもや定市が背くとは思えなかったのだ。これで、定市の一時的な逸る心を冷静にさせ得るのではないかと期待した。
 が、笑いを含んだ声が耳許で囁く。
「心配には及ばねえ。今夜、私はお前をどうこうしようと考えてるわけじゃない。だが、一つ頼みがある」
 涙の滲んだ眼で見つめると、定市が薄く笑った。
「お前の裸を見たいんだ」
「―」
 お千香は信じられない想いで定市を見返した。
 定市の眼は何かに憑かれたような異様な光を帯びている。
「先代の旦那さまは、確かにお前には夫婦の交わりはできねえと仰せになった。しかし、身体を見せるくらいなら、できるだろう?
私はこれからの長い生涯、お前に指一本触れることもできねえんだ。せめて裸を見るくらいは許されても良いんじゃねえのか」
「気は確かですか」
 問い返すと、定市は嗤った。
「生憎と、哀しいほどに気は確かだぜ」
―この男は狂っている。
 お千香は、ちりちりと恐怖が身体を這い上がるのを感じた。
「な、帯を解いて着物を脱ぐだけで良いんだ。簡単なことじゃねえか。何も難しく考えることはねえ」
「いやです。絶対にいやです」
 お千香は烈しく首を振りながら、怯えた眼で定市を見た。
 刹那、両手をまとめて掴まれ、お千香は悲鳴を上げた。定市が荒々しくお千香をその場に落し倒した。そのまま上から覆い被さられ、お千香は手脚を必死で動かし暴れた。何とか定市から逃れようと渾身の力で抗ってみたけれど、定市の逞しい力で押さえつけられていては、所詮、ビクともしない。
「誰か来て、助けて。いやっ」
 お千香は泣き叫びながら暴れた。

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