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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

「きれいだ。お千香、何てきれいなんだ」
 定市が恍惚として、お千香の裸身を眺めおろしていた。
 固く眼を閉じていても、その眼からは涙が溢れ続ける。お千香はあまりの恥ずかしさでその場から消えてしまいたかった。
―おとっつぁん。何で、私だけ置いて死んじまったりしたの? 私も一緒に連れて行ってくれれば、こんなに辛い思いをしなくても済んだのに。
 お千香は溢れる涙をぬぐうことすらできなかった。
 狂気を宿した眼で定市がお千香の裸身を食い入るように眺めている。
 行灯の火が消えたのは、まさにその直後であった。漆を流し込んだ闇が一斉に押し寄せてきて、室内が急に冷え冷えとなる。お千香はその無限の闇に呑み込まれそうな心許なさを憶えた。
 十六年の生涯で、本気で死んでしまいたいと思ったのは、これが初めてであった。
 お千香の地獄の日々が、こうして始まった。

 その二日後のことである。
 昼下がり、お千香は定市を探し歩いていた。丁度、定市は表で客の相手をしている最中であった。昼時とて、さしもの広い店内にも客の姿はまばらである。主の定市自ら応対しているのは、武家の奥方とそのうら若き娘らしかった。娘はお千香と同年配のようで、男ぶりも良い若い主人自身が丁重に品物の説明をしている傍で、うっすらと頬を染めている。
 他にも何人かの手代が反物をひろげて、接客をしていた。お千香は頬を上気させる娘を見て、ぼんやりと思った。
 もし、自分でなければ、定市を憎からず思う女は大勢いるだろう。定市はなかなかの男前だし、身の丈もある。真面目な働き者で、父政右衛門が見込んだだけはあり、商才も十分に備えている。多分、美濃屋は定市が六代目を継ぐことで、安泰だろう。
 しかし、お千香は、どうしても嫌なのだった。あの感情の窺えぬ瞳で見つめられただけで、背中に氷塊を入れられたかのように鳥肌が立つ。
 二日前の夜の定市は、どこまでも容赦がなかった。定市の前で、あられもない姿を晒し、その執拗な視線で全身をなめ回すように眺め回されたことは、お千香にとって耐え難い恥辱だった。

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