夢のうた~花のように風のように生きて~
第2章 悲劇の始まり
すべての動きを封じ込められていたから、抵抗らしい抵抗もできないまま、ただ、なされるがままになっているしかなかった。
あの夜以来、お千香はもうあの男と同じ屋根の下にはいられないと考えている。
お千香の視線に気づいたのか、定市が立ち上がった。後ろに控えていた手代の一人を手招きし、武家の母娘の応対を代わらせると、自分はお千香の方に向かって真っすぐ歩いてくる。定市を見て頬を染めていた娘の方があからさまに落胆の表情を見せていた。
定市は何を言うでもなく、先に立って歩いてゆく。磨き抜かれた廊下を幾重にも折れ、奥向きに入った。ここから先は美濃屋の家族が起居する棟になり、使用人が暮らす場所や表の店舗とは厳然と隔てられている。
歴代の当主が使う主部屋はつい最近まで、父の政右衛門が暮らしていた懐かしい場所でもあった。が、今では六代目当主となった定市が起居している。父が健在であった時分はお千香もしばしば訪れていたものだったけれど、今となっては来ることもない。
「珍しいな。お前の方から私に用事があるとは」
その現在は定市の私室である主部屋まで来ると、定市は幾分皮肉げな口調で言った。
お千香は定市より少し距離を置いて、下座に座った。定市の顔を見ていると、先夜のあの忌まわしい記憶が嫌が上にも蘇ってくる。
この男に何もかも見られていたのかと思うと、恥ずかしさで身も世もない心地になった。
「お願いがあります」
お千香は両手をついた。
「ホウ、改まって願い事とは何かな」
今日の定市は、どこまでも穏やかだ。二日前の夜に見た冷酷な男とは別人のようでさえある。
「何か欲しいものでもあるのか?」
優しい物言いに、お千香は一瞬、眼前の男がこの前、自分を辱めた男だとは信じられなかったほどだった。
「私を離縁して頂きたいのです」
ありったけの勇気をかき集め、ひと息に言うと、定市の眼が光った。
「私に出て行けというのか?」
定市の眼が剣呑な光を帯びている。
気味の悪いほどの静けさが十畳の広さはある小座敷に満ちていた。
定市が立ち上がり部屋を横切り、庭に面した障子戸を開けた。縁づたいに庭に降りられるようになっており、小さいながらも風情のある小庭が一望できる。
あの夜以来、お千香はもうあの男と同じ屋根の下にはいられないと考えている。
お千香の視線に気づいたのか、定市が立ち上がった。後ろに控えていた手代の一人を手招きし、武家の母娘の応対を代わらせると、自分はお千香の方に向かって真っすぐ歩いてくる。定市を見て頬を染めていた娘の方があからさまに落胆の表情を見せていた。
定市は何を言うでもなく、先に立って歩いてゆく。磨き抜かれた廊下を幾重にも折れ、奥向きに入った。ここから先は美濃屋の家族が起居する棟になり、使用人が暮らす場所や表の店舗とは厳然と隔てられている。
歴代の当主が使う主部屋はつい最近まで、父の政右衛門が暮らしていた懐かしい場所でもあった。が、今では六代目当主となった定市が起居している。父が健在であった時分はお千香もしばしば訪れていたものだったけれど、今となっては来ることもない。
「珍しいな。お前の方から私に用事があるとは」
その現在は定市の私室である主部屋まで来ると、定市は幾分皮肉げな口調で言った。
お千香は定市より少し距離を置いて、下座に座った。定市の顔を見ていると、先夜のあの忌まわしい記憶が嫌が上にも蘇ってくる。
この男に何もかも見られていたのかと思うと、恥ずかしさで身も世もない心地になった。
「お願いがあります」
お千香は両手をついた。
「ホウ、改まって願い事とは何かな」
今日の定市は、どこまでも穏やかだ。二日前の夜に見た冷酷な男とは別人のようでさえある。
「何か欲しいものでもあるのか?」
優しい物言いに、お千香は一瞬、眼前の男がこの前、自分を辱めた男だとは信じられなかったほどだった。
「私を離縁して頂きたいのです」
ありったけの勇気をかき集め、ひと息に言うと、定市の眼が光った。
「私に出て行けというのか?」
定市の眼が剣呑な光を帯びている。
気味の悪いほどの静けさが十畳の広さはある小座敷に満ちていた。
定市が立ち上がり部屋を横切り、庭に面した障子戸を開けた。縁づたいに庭に降りられるようになっており、小さいながらも風情のある小庭が一望できる。