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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

 定市は縁側に佇み、庭を眺めていた。寒い日が続いたせいか、二日前の夜、一晩中降り続いた雪は今もまだ庭にうっすらと溶け残っている。片隅にある南天の樹の紅い実が眼にも鮮やかであった。
「私は先代の旦那さまがお決めになった、れっきとした美濃屋の主だ」
 定市は庭を眺めたまま、固い声で言った。
 お千香は、すかさず言った。
「それは十分存じております。ですから、私はあなたに出て行って欲しいなぞとは申しておりません。私が美濃屋を出ます」
「何だと?」
 定市が愕きもあらわに振り向いた。
「私は、旦那さまに対して何の役にも立たない人間です。私がここを出て行けば、旦那さまも新しい奥さまをお迎えになれるでしょうし、それがいちばん良い方法だと思うのです」
 この二日間、お千香なりに考えて出した結論であった。定市は美濃屋の主としても不足はない。だが、自分には定市の求める妻としての役目を果たすことはできない。お千香さえ美濃屋を去れば、定市はまた別のふさわしい女を後添えに迎えることができる。
 お千香は先刻の武家の娘を思い出していた。応対する定市の顔にうっとりと見惚れていた娘を見る限り、世の中の若い娘の大部分は定市のような男を好もしく思うものなのかもしれない。いや、あの娘だけではなく、美濃屋に仕える若い女中たちの中にも定市が手代頭であった頃から想いを寄せる女は少なくはなかった。
 恐らく、お千香は世の娘たちとは少し違っているのだろう。自分が美濃屋を出ることが、定市にとっても最も望ましい道だと思えたのだ。
 だが、予想に反して、定市は端正な顔を怒りに染めていた。
「お前は、そんなに私が嫌なのか」
「え―」
 お千香は思いがけぬ相手の反応に、眼を見開いた。
「私から逃れるためには、生まれ育った家やこの店の暖簾を捨て去っても良いと思うほどに、私を嫌うのか」
 返す言葉もなかった。改めて指摘されてみれば、定市の言うとおりである。互いのため、定市のためと言いながら、実は、お千香はこの男の傍から逃げ出したい、ただその一心であった。むろん、我が身が退いた方が定市のためにも良いと考えたのは本当だ。

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