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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

しかし、その裏には、定市の執拗な視線の届かぬ場所へ逃れたいという想いがあるのは確かだった。
「お前は何か勘違いしている」
 定市の眼が冷たい光を放っていた。あの、お千香を押さえつけ、容赦なく着物をはぎ取った男の眼だ。
「私が欲しかったのは、この美濃屋の身代だけじゃねえ。いや、この店の身代なぞ欲しければ誰にでもくれてやる。私が本当に欲しかったのはお前だ、お千香。やっと手に入ったお前を私がみすみす手放すと思うのか」
「でも」
 声が震えた。
「私があなたの望むような女房にはなれないことは、旦那さまも既にお判りになったはずではありませんか」
 そう、二日前の夜、定市は誰よりもそのことを―お千香の秘密をよく知ったはずなのに。
「私がそんなことを気にすると思うのか?
お前はたとえ何があろうと、お千香に変わりはしねえ。私が丁稚の頃からずっと憧れていた美濃屋のお嬢さんさ」
 もし心底から惚れた男に囁かれた科白ならば、どんなにか嬉しいだろう。しかし、触れられるどころか顔を見るのも嫌な男に言われても、ただ疎ましいばかりであった。
―たとえ何があろうと、お前はお千香に変わりはしねえ。
 その科白こそ、亡き父政右衛門がお千香の良人となる男に望んでいたものであった。
 だが、流石に先を見通す力のある政右衛門も、お千香が定市を心底嫌い抜いているとは考えておらず、そこが大きな誤算であり、また悲劇の因(もと)となった。政右衛門がお千香の婿になる男に期待していたのは、お千香が生まれながらに抱える重大な秘密を知ってなお、お千香を変わらぬ愛で包み込める男だったのだ。
「お願いです、どうか私を離縁して下さい」
 お千香は手をついた。この男の前で涙を見せたくないと思うのに、また涙が溢れそうになっていた。
 うつむいたままのお千香に定市の無情な声が降ってくる。
「それに、世間知らずの娘がたった一人で世間に放り出されて、どうするってえいうんだ? どうせ、ここを一歩出たとたんに、さらわれて男どもの慰みものになるか、女郎屋に売り飛ばされる羽目になるのが関の山だぞ」

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