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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

 定市が一瞬手を放した隙に、お千香は涙が零れそうになるのをこらえ、懸命にもがき、よろめきながら、やっと定市から離れた。
 後を振り返りもせずに襖を開けて居間をつっきると、部屋の外に逃れ出た。
 涙が堰を切ったように次々に溢れ出てくる。
 どうして、いつもこんなことになるのだろう。お千香は泣きながら、長い廊下を足早に走り去った。いつまでもここにいると、定市が追いかけてくるようで、無性に怖くてたまらなかった。
 自分の部屋まで漸く戻ってきた時、部屋の前で乳母のおみつが所在なげに行きつ戻りつしているのが眼に入った。
「おみつ」
 お千香は、おみつの懐に飛び込んだ。
「まあ、お嬢さま。いかがなされましたか?」
 小柄なおみつと、女ながら上背のあるお千香では、見た目は大人と子どもほどにも大きさが違う。だが、おみつは、お千香を抱きしめると、小さい頃によくそうしてやっていたようにトントンと背中を叩いた。
「お姿が見えないので、心配していたのですよ」
 お千香はひとしきり、おみつの胸の中で泣きじゃくった。二日前の夜のことは、おみつには話してはいない。心配させたくなかったのだ。
 しかし、今日だけは我慢できず、お千香は定市の仕打ちをおみつにだけは打ち明けた。
「まあ、ですが、それは先代さまのご遺志にも背くことではございませんか。旦那さまもそのことはご承知で、お嬢さまと所帯をお持ちになったはず」
 「そのこと」というのは、たとえ結婚しても、お千香とは夫婦の契りは叶わぬというものだった。
「それに、おみつ。今だから、お前にだけは正直に言いますが、あの方のことをどうしても好きになれないのです。私はあの方の眼が怖い。まるで蛇のような冷たい情け容赦のない眼に見つめられると、身体が竦んでしまう」
「お嬢さまは、旦那さまをお嫌いなのですね」
 念を押され、お千香は頷いた。
 おみつは小さな息を吐いた。

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