夢のうた~花のように風のように生きて~
第2章 悲劇の始まり
《悲劇の始まり》
その夜は雪になった。
お千香は先刻から仏間でボウとしたまなざしを父の位牌に向けていた。
お千香の父美濃屋政右衛門が突如として倒れ、ついに意識を取り戻すこともなく亡くなったのは、つい三日ほど前のことだ。日頃から心ノ臓を患っていた父は、このときが来るのをあらかじめ覚悟はしていたようだ。掛かり付けの町医者からも次に発作を起こせば生命の保証はできぬと告げられていた。
お千香もまた、父の寿命が長からぬことは知っており、だからこそ、父が手代頭の定市と自分を急きょ婚約させたのだとも理解していたつもりだ。美濃屋は江戸でも一、二を争う大店の呉服太物問屋である。政右衛門はその五代目で、お千香は政右衛門のたった一人の娘であった。
定市は十の頃から美濃屋に丁稚として奉公に上がり、以来十年余にわたって忠勤を励んできた。影陽なたのない働きぶり、いささか生真面目すぎるほどの律儀さを政右衛門は気に入り、ずっと眼をかけて一人前の商人(あきんど)に仕立て上げるべく育ててきた。
思えば、その頃から既に政右衛門には、ゆくゆくは定市をお千香の婿にという心づもりがあったのだろう。むろん、お千香はそんなことを想像だにしたことはなかった。ただ、物心ついた頃から、自分をじいっと見つめる定市の粘着質な眼を怖いと子ども心に感じたものだった。
まるで、ねっとりとまとわりついてくるような定市の眼がただただ怖ろしく、嫌いだった。廊下ですれ違った際、ふと定市が思い詰めたようなまなざしを自分に注いでいることに気づくと、お千香は逃げるように歩き去った。
だから、父から定市を将来の良人にと命ぜられた時、お千香は瞬時に嫌だと思った。美濃屋には定市の他に似た年頃の若い手代は何人もいるのに、何故、あの男でなければならないのかと疑問に思った。が、政右衛門は定市の真面目な働きぶりや誠実な人柄を高く評価しており、美濃屋の身代と大切な娘を託せるのは定市をおいてはおらぬと早くから決めていたようだ。
その夜は雪になった。
お千香は先刻から仏間でボウとしたまなざしを父の位牌に向けていた。
お千香の父美濃屋政右衛門が突如として倒れ、ついに意識を取り戻すこともなく亡くなったのは、つい三日ほど前のことだ。日頃から心ノ臓を患っていた父は、このときが来るのをあらかじめ覚悟はしていたようだ。掛かり付けの町医者からも次に発作を起こせば生命の保証はできぬと告げられていた。
お千香もまた、父の寿命が長からぬことは知っており、だからこそ、父が手代頭の定市と自分を急きょ婚約させたのだとも理解していたつもりだ。美濃屋は江戸でも一、二を争う大店の呉服太物問屋である。政右衛門はその五代目で、お千香は政右衛門のたった一人の娘であった。
定市は十の頃から美濃屋に丁稚として奉公に上がり、以来十年余にわたって忠勤を励んできた。影陽なたのない働きぶり、いささか生真面目すぎるほどの律儀さを政右衛門は気に入り、ずっと眼をかけて一人前の商人(あきんど)に仕立て上げるべく育ててきた。
思えば、その頃から既に政右衛門には、ゆくゆくは定市をお千香の婿にという心づもりがあったのだろう。むろん、お千香はそんなことを想像だにしたことはなかった。ただ、物心ついた頃から、自分をじいっと見つめる定市の粘着質な眼を怖いと子ども心に感じたものだった。
まるで、ねっとりとまとわりついてくるような定市の眼がただただ怖ろしく、嫌いだった。廊下ですれ違った際、ふと定市が思い詰めたようなまなざしを自分に注いでいることに気づくと、お千香は逃げるように歩き去った。
だから、父から定市を将来の良人にと命ぜられた時、お千香は瞬時に嫌だと思った。美濃屋には定市の他に似た年頃の若い手代は何人もいるのに、何故、あの男でなければならないのかと疑問に思った。が、政右衛門は定市の真面目な働きぶりや誠実な人柄を高く評価しており、美濃屋の身代と大切な娘を託せるのは定市をおいてはおらぬと早くから決めていたようだ。