夢のうた~花のように風のように生きて~
第2章 悲劇の始まり
むろん、惚れた相手とは添えぬ運命(さだめ)の我が身だととうに諦めている身であれば、相手はどこの誰でも良いと半ば投げやりな気持ちもあった。しかし、そんな風に自棄になってさえ、あの男―定市だけは嫌だと思った。では、定市のどこが気に入らないのかと問われれば、お千香には、はきとした返答はできない。
本能的な嫌悪感と恐怖、強いて言えば、あのハ虫類を彷彿とさせるような陰気な眼であろうか。狙った獲物はどこまでも執拗に追いかけてゆくような酷薄さを宿した瞳だ。父の言うように、同じ年代の若い男のように遊廓で遊んだり、羽目を外したりすることはなく、極めて真面目だし、男ぶりも悪くはない。だが、笑い声を立てることもなく、いつも一人でひっそりとしている様子は、何となく不気味でさえあった。
だが、父の命に逆らうことはできない。それに、定市は単に商人、次の美濃屋の主として考えれば、確かにふさわしい男かもしれなかった。放蕩で身代を食いつぶすこともなく、ひたすら商売ひと筋に六代目としての責務を果たそうとするに相違ない。自分さえ我慢して、我が儘を言わなければ、すべては難なく運ぶはずだ。お千香はそう思うから、父にこの縁談を嫌だとは微塵も口にしなかった。
お千香が承諾すると、政右衛門は定市とお千香を奥まった居間に呼んだ。政右衛門からお千香との結婚を言い渡されても、定市の表情には殆ど変化はなかった。ただ深く頭を垂れて、〝私ごとき者には勿体ないお話でございます。謹んでお受けさせて頂きます〟と応えたのみであった。
次に政右衛門は、お千香を見、それから定市を見た。
―それから、お前に一つだけ言っておかなければならないことがあります。むろん、お前はお千香との縁談を承知したのだから、この秘密を打ち明けたとて、何の不都合もないと思うが。
そう前置きして、政右衛門は続けた。
―この娘(こ)には、さる事情があって、たとえ祝言を挙げても、夫婦の交わりは叶わぬのだよ。
このときだけ、定市が控え目に口を開いた。
―その理由とやらを今ここでお伺いしてもよろしうございましょうか。
政右衛門の穏やかな眼にその一瞬だけ不穏な光がよぎった。やり手と評判の商人らしい計算高い顔だ。
本能的な嫌悪感と恐怖、強いて言えば、あのハ虫類を彷彿とさせるような陰気な眼であろうか。狙った獲物はどこまでも執拗に追いかけてゆくような酷薄さを宿した瞳だ。父の言うように、同じ年代の若い男のように遊廓で遊んだり、羽目を外したりすることはなく、極めて真面目だし、男ぶりも悪くはない。だが、笑い声を立てることもなく、いつも一人でひっそりとしている様子は、何となく不気味でさえあった。
だが、父の命に逆らうことはできない。それに、定市は単に商人、次の美濃屋の主として考えれば、確かにふさわしい男かもしれなかった。放蕩で身代を食いつぶすこともなく、ひたすら商売ひと筋に六代目としての責務を果たそうとするに相違ない。自分さえ我慢して、我が儘を言わなければ、すべては難なく運ぶはずだ。お千香はそう思うから、父にこの縁談を嫌だとは微塵も口にしなかった。
お千香が承諾すると、政右衛門は定市とお千香を奥まった居間に呼んだ。政右衛門からお千香との結婚を言い渡されても、定市の表情には殆ど変化はなかった。ただ深く頭を垂れて、〝私ごとき者には勿体ないお話でございます。謹んでお受けさせて頂きます〟と応えたのみであった。
次に政右衛門は、お千香を見、それから定市を見た。
―それから、お前に一つだけ言っておかなければならないことがあります。むろん、お前はお千香との縁談を承知したのだから、この秘密を打ち明けたとて、何の不都合もないと思うが。
そう前置きして、政右衛門は続けた。
―この娘(こ)には、さる事情があって、たとえ祝言を挙げても、夫婦の交わりは叶わぬのだよ。
このときだけ、定市が控え目に口を開いた。
―その理由とやらを今ここでお伺いしてもよろしうございましょうか。
政右衛門の穏やかな眼にその一瞬だけ不穏な光がよぎった。やり手と評判の商人らしい計算高い顔だ。