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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

―残念ながら、それは言うことはできない。何故なら、このことはお千香の引いては、この美濃屋の体面にも拘わることだからです。しかし、それでは、お前さんも得心がゆかぬだろうから、ここは、ただ身体が弱いからということにしておこうか。
―健康上、問題がおありだということでございますね。
 定市は感情の読み取れぬ瞳で政右衛門に問い返した。
 政右衛門がおもむろに頷く。
―まあ、そういうことです。お千香の身体が丈夫でないのは、お前もよく知ってるだろう。こんなか弱い娘には到底、子を産むことなどはできません。
―それでは、子を作らぬようにすれば良いのでは?
 定市が珍しく食い下がると、政右衛門は眉をひそめた。主人の不機嫌さをすぐに認めた定市は頭を下げた。機を読むのに聡い彼は、ここでこれ以上主に逆らわぬ方が良いと判断したのだ。
―判りました。旦那さまのお言いつけは肝に銘じて、生涯お守り致します。
 それで、この話はもうおしまいとなった。
 その半月後には正式に結納が交わされ、更に数日後、政右衛門が倒れた。そして、かねてからの言いつけどおり、意識のない政右衛門の枕許でお千香と定市の仮祝言が簡素に行われた。
 政右衛門は自分に万が一のことがありしときは、定市とお千香の仮祝言を行うことを書状にしたためていたのである。仮祝言の二日後、政右衛門は逝去した。発作を起こして倒れてから、わずか数日後のことである。それから、お千香の周辺は俄に慌ただしくなった。
 政右衛門の葬儀がしめやかにも盛大に執り行われ、翌月には定市の美濃屋六代目襲名披露の儀が深川の料亭で予定されている。しかし、騒々しいのは、あくまでもお千香の周囲に限られており、お千香自身の日々は以前と何一つ変わるわけではない。お千香と定市の本祝言は政右衛門の一周忌を終え、喪が明けてからということになっている。
 お千香は政右衛門が生きていた頃のように奥まった居室で起居し、良人の定市と臥所(ふしど)を共にすることはない。お千香は、今もまだ父の死が信じられないでいた。覚悟していたのに、それでもなお悪い夢を見ているような心持ちさえする。

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