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夢のうた~花のように風のように生きて~

第5章 花塵(かじん)

「それで、徳松さんの具合は、どんな風なんですか?」
「実は、あっしもよくは知らねえんだ。ただ通りすがりに、医者に運ばれてゆく徳松さんを見かけてねえ。付き添っていた親方に、おかみさんのところまで知らせてくれるように頼まれたんだよ」
「ご親切、心から感謝します。徳松さんが運ばれていったお医者さまというのは、どこなんでしょう?」
 よくよく考えてみれば、妙な話だったのだ。医者に連れてゆくというのなら、まずこの長屋に運んで、大家の伊東竹善に診せるのが順番のはずだ。留造親方なら、必ずそうするはずなのに、お千香はすっかり動転していて、男の話を頭から信じ込んだ。
「うん、その医者のところにこれからおかみさんを案内するよ」
 お千香は取る物も取りあえず、三和土に降り草履を突っかけた。長屋を出て、男について大急ぎで歩く。長屋の木戸を出たところで、駕籠が待っていた。
「この駕籠に乗ってくれ。後は駕籠が連れていってくれるだろう」
 礼を言おうとする間もなく、駕籠の筵が降ろされ、男の顔は見えなくなった。その時、
―悪く思わねえでくれよ。
 そんな呟きが聞こえたように思ったのは、空耳だったのだろうか。
 どれくらい走ったのか、随分と長いように思えた。こんな遠方の医者にわざわざ連れていったのだろうかと、お千香が不安の中にも疑念を抱き始めた頃、漸く駕籠が止まった。
 降りるように言われ、お千香は地面に降り立った。ここは―。
 お千香は周囲を見回し、小首を傾げた。
 前方に見えるのは、美濃屋の所有となっている今戸の寮であった。いわゆる別荘のようなものだ。付近には、やはり似たような商家の寮が点在しているが、人家はあまり見当たらない。要するに、平素から人が住んでいる家はこの界隈には殆どないと言って良いのだ。
 寮番といって、管理人のような役目を果たす者だけが常駐しており、普段は寮番以外は誰もいない。昼間でも人気のない、良くいえば侘びのある風情の場所であり、悪く言えば寂れた淋しい場所であった。

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