テキストサイズ

夢のうた~花のように風のように生きて~

第5章 花塵(かじん)

烈しい嘔吐感に苛まれるようになって、お千香はひと回り以上も痩せた。元々白磁のようであったすべらかな膚はますます白くなり、透き通るようであった。
 一月も十日を過ぎたその日、定市が老齢の男を今戸の寮に連れてきた。どうやら、その男は医者らしく、お千香をひととおり診ると、淡々と告げた。
「ご懐妊ですな。もう五ヶ月に入っておられますぞ」
 その言葉に、お千香は少なからぬ衝撃を受けた。傍らの定市は予想外にも愕いた風はなかった。医者は、お千香当人には告げなかったものの、お千香の身体が相当に衰弱していることを定市に宣告した。
―このまま放置しておいては、取り返しのつかぬ仕儀になりましょう。このような場所に置いておかれるよりは、美濃屋へお連れになって、ごゆっくりとご養生させて差し上げた方がよろしいでしょうな。
 「それから」と、帰り際に定市をつと振り向いて言った。
―閨での房事はほどほどになさるがよろしいでしょう。ご出産までは、どんなことがあっても、ご新造と夫婦の交わりをしてはなりませぬぞ。これ以上、お身体に負担をかけぬようにするのが第一。それでなくとも、あの弱りようでは、産み月までお身体がもつかどうか危ぶまれます。
 この老人は、昔はさる藩の御殿医をも務めたことがあった。今は隠居して悠々自適に暮らしているところ、定市が大店美濃屋の名前を持ち出し、金を積んで、わざわざ往診に来て貰ったのだ。
 老医師は、すべてをお見通しのようであった。定市がお千香を今戸の寮に監禁して、陵辱の限りを尽くしていることまでをも見透かされているようでさえある。医者は、定市のお千香への異常なまでの執着を見抜いた上で、暗に度を過ぎた営みがお千香の健康をここまで狂わせたのだと指摘したのであった。
 このまま閨での交わりを続ければ、腹の子はもとよりお千香の生命まで保証はできぬと、医師は穏やかではあるが、はっきりと定市に告げ、駕籠に乗って帰っていった。
 その翌日、お千香は一年ぶりに懐かしい我が家へと帰った。最早駕籠に乗る体力もなく、戸板に乗せられ、大八車に揺られての帰宅であった。大番頭の茂平初め、奉公人一同が店先で居並んで出迎えた。戸板に乗せられたお千香は可憐な花のような面影はあったものの、まるで別人のように弱っていた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ