夢のうた~花のように風のように生きて~
第2章 悲劇の始まり
行灯がほの暗い光を投げかけている部屋は、がらんとして淋しげに見えた。火鉢が置いてあり、室内は十分に温まってはいたが、心の寒さまでを癒やしてはくれない。お千香は無意識の中に自分の身体を両手でかき抱いた。
不思議なことに、そんなはずはないのに、戸外で降りしきる雪の音が聞こえてくるような気がした。それほどに静かな夜であった。夕刻から降り始めた雪は、このまま降り続ければ、朝方には積もっているかもしれない。
お千香は眠れぬままに、とりとめもないことを考えた。政右衛門が亡くなった後、いちばんの気がかりは良人定市の存在であった。よもや真面目一途の定市が亡き先代の遺言を違えるとは思わなかったけれど、これからは、あの男を頼りに生きてゆかなければならないのかと考えただけで気が沈んだ。
本音を言えば、お千香は定市とはできるだけ拘わりたくはない。お千香を妻にすることで定市は美濃屋の身代を手に入れ、それとひきかえに形だけの夫婦で満足してくれるものだと安易に考えている。生涯、夫婦の交わりが叶わぬというのであれば、定市が吉原の遊廓に行こうと岡場所に行こうと、他の女と懇ろになることも致し方なしとも思っていた。
いや、むしろ、その方がよほど気が楽というものだ。あの蛇のような冷たい眼を思い出しただけで、身体中に膚が粟立つようだ。こうして定市が毎日商いに明け暮れて忙しく過ごしていて、お千香とは話すどころか、ろくに顔を合わせることもないのを心のどこかで安堵していた。
眠気はいっかな訪れてはくれず、眼だけが冴えていた。父の死からずっとのあれこれで身体だけは疲れ切っていたが、相反して意識だけは確かである。それでも、夜も更けてきたようなので、流石にそろそろ床に入ろうかと思ったときのことだ。
廊下に面した部屋の障子が音もなく開いた。意外な人物に、お千香は眼を見開いた。
定市がひっそりと薄い闇の中に佇んでいる。
「何か、ご用ですか」
我ながら、愕くほどよそよそしい声だった。たとえ昔は主筋とはいえ、現在、定市は良人であり、この美濃屋の主人である。最早、昔のようにお嬢さまが手代に対するような口のきき方は許されない。言うならば、二人の立場は逆転したわけだ。
不思議なことに、そんなはずはないのに、戸外で降りしきる雪の音が聞こえてくるような気がした。それほどに静かな夜であった。夕刻から降り始めた雪は、このまま降り続ければ、朝方には積もっているかもしれない。
お千香は眠れぬままに、とりとめもないことを考えた。政右衛門が亡くなった後、いちばんの気がかりは良人定市の存在であった。よもや真面目一途の定市が亡き先代の遺言を違えるとは思わなかったけれど、これからは、あの男を頼りに生きてゆかなければならないのかと考えただけで気が沈んだ。
本音を言えば、お千香は定市とはできるだけ拘わりたくはない。お千香を妻にすることで定市は美濃屋の身代を手に入れ、それとひきかえに形だけの夫婦で満足してくれるものだと安易に考えている。生涯、夫婦の交わりが叶わぬというのであれば、定市が吉原の遊廓に行こうと岡場所に行こうと、他の女と懇ろになることも致し方なしとも思っていた。
いや、むしろ、その方がよほど気が楽というものだ。あの蛇のような冷たい眼を思い出しただけで、身体中に膚が粟立つようだ。こうして定市が毎日商いに明け暮れて忙しく過ごしていて、お千香とは話すどころか、ろくに顔を合わせることもないのを心のどこかで安堵していた。
眠気はいっかな訪れてはくれず、眼だけが冴えていた。父の死からずっとのあれこれで身体だけは疲れ切っていたが、相反して意識だけは確かである。それでも、夜も更けてきたようなので、流石にそろそろ床に入ろうかと思ったときのことだ。
廊下に面した部屋の障子が音もなく開いた。意外な人物に、お千香は眼を見開いた。
定市がひっそりと薄い闇の中に佇んでいる。
「何か、ご用ですか」
我ながら、愕くほどよそよそしい声だった。たとえ昔は主筋とはいえ、現在、定市は良人であり、この美濃屋の主人である。最早、昔のようにお嬢さまが手代に対するような口のきき方は許されない。言うならば、二人の立場は逆転したわけだ。