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夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

 だが、定市は何も言わず、すっと部屋の中に入り込み、障子を閉めた。お千香は訝しむような眼で定市を見た。
 実際、こんな深夜に、しかも相手の許可も得ずに寝室に入り込むというのは失礼なのではないか。たとえ夫婦とはいえ、お千香自身はあくまでも形式上だけのものと思っているから、今夜の定市の行為は許せぬものに思えた。
 が、定市はお千香の思惑など意に介する風もない。当然だと言わんばかりの態度で、どっかりと上座に腰を下ろした。火鉢を挟んで、お千香は定市と向かい合う形になる。気詰まりな沈黙が二人の間に落ちた。
 定市の顔を見るのがいやだったので、火鉢にかかった鉄瓶ばかりに意識を集中させようとした。
「お茶が呑みたいな」
 唐突に定市が沈黙を破った。
 お千香はその言葉にホッとした。これでこの部屋を出るための都合の良い言い訳ができた。これ以上、定市と同じ部屋にいるなぞ真っ平ご免であった。
「私、厨房に行って、おみつにお茶を持ってきてくれるように頼んできます」
 おみつというのは、お千香が誕生の砌から傍近く仕えている乳母だ。もしかしたら、実の母以上に近しい存在かもしれない。恐らく、今、この世で唯一心許せる相手に違いない。
 とりわけ十で母を失ってから、おみつは欠かせない人となった。物心つく前から、いつも眠るときは、おみつが傍についていてくれる。もっとも、定市と仮祝言を挙げてからというものは、おみつも遠慮して隣の部屋で眠ることはなくなった。
 むろん、おみつは、お千香の秘密を誰よりよく心得ているし、政右衛門が定市にお千香とは未来永劫夫婦の契りをしてはならぬと約束させたことも知っている。それでも、かりそめにも祝言を挙げたお嬢さまにいつまでも乳母が添い寝することは、はばかられたのであろう。
 お千香が幼い頃、おみつはよく傍らに添い寝して、子守唄を聞かせてくれた。あの唄は、おみつ自身、やはりその母親から歌って聞かされたものだという。幼子にはまだ、はっきりとは意味さえ判らなかったけれど、少し大きくなってからは、それが恋の歌だと判った。

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