テキストサイズ

夢のうた~花のように風のように生きて~

第2章 悲劇の始まり

思えば、お千香が恋に憧れるようになったのは、その頃からだろう。おみつが歌う子守唄のように、父や母のように、いつか年頃になれば素敵な男が現れ、恋に落ちるのだと信じていた。そして、二人は結ばれる―。
 しかし、あの子守唄を聞きながら、文字通り夢の世界、眠りの世界へと誘(いざな)われていった幼き日はあまりにも遠くなった。今のお千香は、それが所詮は叶わぬ夢であることを知っており、親の言うがままに夫婦(めおと)となった形だけの良人がいる。
 だが、こんなときには、おみつがこれまでのように傍にいてくれたならと、つくづく思わずにはおれない。
 こんな夜更けに奉公人が起きているとは考えがたいけれど、少なくとも、これで定市と一つ部屋にいるのを回避はできる。もう少し早い時間であれば、女中が厨房にいたかもしれないが、わざわざ茶を淹れるためだけに真夜中に起こすのは躊躇われた。
 お千香には、このような優しさがある。たとえ奉公人相手といえども、けして無理難題を言ったりはせず、幼い頃から自分でできることは自分でするように躾けられて育ってきた。
「待ちなさい」
 腰を浮かしかけたお千香を制して、定市は両手を膝の上に置いて座り直した。定市の髪は黒一色というよりは、やや茶色がかっているのが特徴的だ。陽に当たると、殊にその色が際立つ。行灯の火に照らされた茶色の髪が、後ろの唐紙障子に複雑な翳を作っている。
「私はお前の淹れてくれたお茶が呑みたいんだ」
 お千香は押し黙った。
 火鉢の傍らには、盆にのった急須や湯飲みが常時備えられている。お湯が沸けば、ここですぐにお茶を淹れることができるのだ。そのことに気づいていないわけではなかったが、定市と二人きりで部屋にいるのが嫌だったのだ。
 お千香が何も言えないでいると、定市が静かな声音で言った。
「それとも、私のためにお茶を淹れることはできないとでも?」
 その声は静かすぎるほど静謐で、かえって不気味であった。だが、口調の静かさとは裏腹に、定市の双眸は鋭すぎる光を放っている。
「判りました」
 お千香は良人の言葉に仕方なく腰を下ろした。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ