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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 海は不思議だと思う。寄せては返す白い波がしらを見ていると、母が幼い頃に添い寝しながら読み聞かせてくれた寓話を思い出すのだ。
―人魚姫は、そうして、泡になって天高くへと還ってゆきました。
 なるほど、蒼い波をふちどる白くて繊細なレース模様のような光景を眺めていると、あの蒼い水の底には人魚たちの住まう城があって、本当に美しい彼の姫がいるのではないかとさえ思えてしまう。
 幼い美月が特に好きで、母にせがんでよく話して貰ったのが、アンデルセンの〝人魚姫〟と〝人魚のくれた桜貝〟だった。後者の方は残念なことにもう作者の名も忘れてしまったけれど、K町の図書館で借りた日本の童話作家が書いた絵本だったように記憶している。
―そして、人魚がはらはらと零した涙が桜色をした小さな貝になったのです。
 それは、哀しくも美しい話だった。本の内容も作者すらももう不確かなのに、不思議とラストのシーンだけは鮮烈に記憶に灼きついている。
 夕暮れ時の刻一刻と色をうつろわせる空を見ているのと同じで、海を見ていても飽きない。
 夕暮れにしろ、海にしろ、自然はどうしてああまで美しい光景を織りなすことができるのだろう。それは、まさに神秘としか言いようがない気がする。こうして大自然に間近に触れていると、人間なんて所詮はちっぽけな存在だと思うし、日常の些末なことでいちいち心を悩ませるのも愚かなことに思えてくるのだった。
 美月は脚を止め、その場にしゃがみ込む。白いさらさらとした粒子の細やかな砂を両手で掬うと、ほっそりとした白い指先のあいだから白砂が零れ落ちてゆく。ふと白い砂の中にキラリと光るものを見つけ、人さし指でつまむ。
 美月が手のひらの上に乗せたのは、小さな薄紅色の貝―桜貝だった。
「きれい」
 美月は少女のように歓声を上げた。よくよく注意してみると、白い砂の中には幾つもの桜貝が紛れ込んでいて、八月末の眩しい陽光を弾いている。
 美月は歓んで一つ一つ壊さないように慎重な手つきでそれらを拾う作業に没頭した。ひとしきり集めた桜貝を波打ち際できれいに洗って泥を落とす。

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