イキシア
第1章 序章
『――むかしむかし。
あるところに、人間の娘と恋に落ちた一人の神がいた。
許されざる恋に落ちた彼の名は、海神ユーチャリス。
海を司りし神と、平凡な人間の娘は自らの運命に逆らい、この地を離れて互いに結ばれる道を選ぶ。
しかしそれを許さなかったのは、古くから神を信仰する人間たちであった。
ユーチャリスがこの地を去り、海が荒れることを恐れた人間たちは、彼が陸地を離れた間に娘を殺してしまう。
そして神に嘘をついた。
「娘は、神の秩序と平穏を失ったこの荒れ海にのまれて死んだのです。」
人間たちの言葉を信じ、愛する人を失った悲しみと後悔で深く心を閉ざしてしまったユーチャリスは、自責の念に駆られ続けた。
――もしも自分が人間だったならば、彼女と結ばれることができたのに。
――もしも自分が魚だったならば、彼女を助けることができたのに。
海神の悲痛な嘆きは一つの生命を生み出す。
神でも人間でも魚でもない異形の者。
人間の姿でありながら、魚の尾ひれをも持つ神秘の生物。
神の嘆きと後悔の念が生み出した、美しき悲哀の化身。
それはただ一心に娘を愛し、禁断の恋に身を委ねた神が生んだ最後の希望であった。
もう二度と、愛する人を失いたくないという最後の――。
やがて人間たちは神への畏怖と罪悪の念を込め、その神秘の生物を"人魚"と呼んだ。』