イキシア
第1章 序章
遥かむかしに実在していたという神と人間の、悲しい恋の物語。
それは代々王族に受け継がれ、煤けた一冊の本となって今、俺の手の中にある。
幼い頃、大好きだったこの話。
難しい言葉だらけで大して意味も分からないまま、夢中になって読んでいた。
けれど父上様や母上様、家臣たちは皆口を揃えて、そんな本を読んではいけないと言う。
幼い俺にはそんな大人たちの言葉の意味すら、よく分かっていなかった。
人魚は人間の醜い心と、神の悲運が生んだ生物だなどという残酷な物語を疎み。
自らの欲望のためなら同族の娘さえ殺し、あまつさえ神に嘘をついた人間という生物を嫌い。
その人間がひしめき合うように生きる、未知の地や空や太陽を拒み。
人間たちに人魚の存在がバレてしまうことを恐れて。
人魚たちはただひっそりと深い深い海の底で暮らしている。
人間の住む陸地に近く、光に満ちた『光海』を避けて。
人間の介入できない、恒久的に闇に閉ざされた『暗海』を選んで。
そうして俺たち人魚はまるでおとぎ話のような物語と共に、海の底で静かに身を隠していた。
父上様も母上様も家臣も、国に住む人魚たちもすべて。
けれど……いつからだろう。
あの物語が、とても楽しいものでないのだと知ったのは。
人間は本当に醜いものなのか、なんて疑問を抱き始めたのは。
まだ見ぬ大地を空を太陽を、自分の目で見て感じてみたいと思ったのは。
この暗く深い海の底での退屈な暮らしに、うんざりしてきたのは。
『秘めた恋』と名付けられたこの古びた本には、実は終わりがない。
肝心な最後の数ぺージが破れられた跡が残っており、そのまま。
最愛の人を失い、一人残された神はその後どうなったのか。
罪深い人間たちは一体どうなったのか。
その続きを俺が知るよしもなかった。