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いつくしむ腕

第1章 愛しいひと

黒いスーツに身を包むと、どうしてか気持ちが引き締まる気がする。
職場の制服に着替えながら、わたしは今日の死亡広告を思い返していた。
ーー94歳女性。喪主、施主、葬儀委員長。
つまり、リボンは3つ必要か。
頭のなかで今日の仕事がどんな風になるか想像する。
農家の方だから、きっと葬儀は大きめになるとか。
94歳まで生きたおばあさん、きっと悲壮感より労いの感が強い葬儀だろうなとか。
あくまで予想なので、出勤してみると全然違ったりもするんだけど。
「果夏、まだ行かない?」
玄関から母が顔を覗かせた。いつも仕事が終わっていれば送ってくれるのだ。
「行く。お願いします」
わたしは運転免許は持っているが、家に車は1台しかない。
つまり、基本的には母が使うので わたしが乗って出勤するわけにはいかないのだ。
あまり運転に信用がない、というのもあるけど。
車に乗り込むと、もわっとした熱気に包まれた。
季節は、もう初夏なのだ。
「今日は19時のお通夜?」
エアコンを入れながら、母が問う。
「うん、これからはきっと殆どがそう」
「ふうん。じゃあ21時くらいになるね」
多分、と答えながら、ポーチに入っていたリップクリームを塗る。甘い果物の香り。
職場は、家から車で5分かからないくらいの距離にある。
歩くと20分はかかるのに、全く車とは便利なものだ。
その道すがら、母は仕事であった出来事をよく話す。
出来事というかまあ、愚痴なのだけど。
大変だなあ、とか、ひどい職場だなあ、とか思いながら相槌を打つのだけど、どうしてかわたしの言葉にはあまり感情がこもらないらしい。
損な声、と思う。
ふと優太の声を思い出す。少し低めの声。眠たいときの甘えた声。抱き合うときの、ちょっとどきっとする声。
どれもに感情を感じる。
「あら、一番乗りじゃない?」
目を上げると、なるほど、わたしが一番乗りだ。
職場の人々は 結構ぎりぎりにくるのだ。
ありがとう、と言いながら車のドアを開ける。
外のほうが、風があって案外気持ちがいい。
母と別れ、「関係者入り口」の扉を引いた。

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