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いつくしむ腕

第2章 故人を偲ぶ

結局、子供はぐずることもなく その日の仕事は無事終わった。
帰宅して、手洗いとうがいを済ませてから煙草に火をつける。
優太と同じ、1㎎のメビウス。
以前のわたしなら絶対に吸わない、1㎎を吸うぐらいなら吸わないほうがいい、と思っていたから。
でもなぜかわたしはそれを吸っているし、違和感も薄れてきた。
ーーきついの吸うと、酔いがまわりやすくて。
初めて会った日、健やかな笑顔で優太はそう言った。
その煙草は、ブルーベリーの香りがした。
優太の香りの煙草を吸うわたし。優太の空気を吸っているような錯覚。

ただいま、やっと仕事終わったよ

いつも通り、仕事から帰ったことを優太に連絡する。
もう21時を過ぎていた。
仕事が終わるのが遅いほうが、帰ってきた報告をするのは
どちらともなく始めた習慣。
わたしたちは、一日中連絡をとることはしない。
どこかへ出掛けていれば、帰ってきたら連絡する、と一旦メッセージは途切れるし、特に何の決まりもない。
決まりを作ることは、とても恐ろしいことのような気がした。

遅くまでおつかれー、ちょうどシャワーから上がった

グッドタイミングだ。以心伝心のようで、心の中でうっとりと微笑む。
それが本当であるかなど分からないのに。
ーーああ、まただ。
わたしはしばしば不安に苛まれる。自分に自信が持てないのだ。
いつ捨てられてもおかしくない。そう思う反面、この人を失うなど考えられないとも。
愛されている確かな証があればいいのに。そう願わずにはいられない。
わたしには、優太を縛り付ける権利も理由もない。
勿論、優太にもわたしを縛る権利はないと思う。
自由であることは、信頼の証のような気がする。束縛は不信感とイコールで結び付くのではないか。
だから恐くてできない。失うことが恐くて。

他愛のないやり取りを繰り返した後、わたしは携帯を置いてバスルームへ向かう。明日は6時に起きなければならない。
ベビーオイルを塗りたくり、化粧を落とす。
熱めのお湯で洗い流すと、なんだか頼りない素顔が鏡に写った。
死者の顔色を思う。生きている自分とは、別物のような色。少し前まで同じ「生き物」だったはずの、亡骸の色。
死後の世界はあるのだろうか。
死んだ後、透明になってふわふわと浮遊していられたらいいのに、と思った。

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