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新‼経済・世相愚問放談

第36章 フリーアナウンサー『鈴木史朗』氏の体験談 中国引き揚げ

ところがそんな中国での日々は、敗戦によって一変しました。父は事業が事業だったため「スパイ容疑」で抑留され、裁判にかけられて死刑になるのではないかというところ、社員だった中国人たちが動いてくれました。「中国に貢献した鈴木大人(リンムータイレン)を死なせたら子孫から恨まれる」と言ってかばってくれ、なんとか処刑されずに済んだのです。

しかし、父が汗水たらして手に入れた会社の社屋、わが家の不動産や貯金、家財一切、およそ数億円単位の財産は、すべて没収されました。

 引き揚げ者全体でみても、国家予算に匹敵する十九兆円もの財産が没収されました。これは国際法違反だと思いますが、戦後、日本で中国に対して「財産を返せ」という声は上がらずじまいでした。

〈七年ぶりの帰国〉

 当時、八歳だった私も、戦争が終わってしばらく経ってから着の身着のまま、下着など身の回りの僅(わず)かな荷物だけを背負って、北京からタンクーまで向かいました。途中、軍のトラックや、石炭運搬用の列車にも乗りました。

 列車は乗るというよりも、体の大きな男性が一番下に横たわり、その上に女性や子供が詰め込まれるという劣悪な状態で、さらにそこへ中国の軍が砲撃してくる。当然、命を落とした方もいました。これこそ、何の罪もない民間人を虐殺した国際法違反ではないでしょうか。

 あとの道のりのほとんどの部分は徒歩でした。私は、母と妹たちと一緒に中国の荒野を歩いたのです。男である自分が父の代わりに頑張らなければと思いましたが、道中で一歳の妹が死に、泣いてむずかる四歳と三歳の妹の手を必死に引いて歩いた体験は壮絶で、七十歳を超えたいまでも夢に見るほどです。

 大人も子供も区別なく、産まれたばかりの幼子を抱いている人や妊娠している女性も、何の区別もなく大陸を彷徨(さまよ)ったのです。途中で餓死する人、力尽きて命を落とす人たちもたくさんいました。

 よくやくタンクーについた時、裁判を免れて車でやってきた父と、奇跡的に合流することができました。そこからはアメリカの軍用フリゲート艦に乗ったのですが、当然、客室などはなく、甲板の上の戦車を載せるスペースに、筵(むしろ)を敷いて寝ていました。

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