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水曜日の薫りをあなたに

第2章 約束の香り、消えるまで


 路地に続く角を曲がる際、はやる気持ちを抑えきれず小走りになる。瞬間、現れた男女と危うく衝突するところだった。
 迷惑そうな視線をよこして歩き去る二人に「すみません」と呟き、薫はため息を吐く。すれ違ったのがあの男でないことに安堵している自分に気づき、彼女はまた小さく息を漏らした。

 ネオン街の一角にひっそりと佇む雑居ビル。七階でエレベーターを降りて通路を進み、飾り気のない黒扉の前で深呼吸する。

――私はいつもどおり、特に変わったこともない、やっぱり平凡な女。

 薫は自身に言い聞かせた。しかし今夜は一つだけ違う。それは、身体からひかえめに漂うフローラルムスクの香り。


――「気に入ったら今度つけてきて」


 あの男の声を思い出し、薫は一人、首を小さく左右に振る。彼のためにつけたわけではない。自分自身がこの香りを愉しむため。そして、この香りに記憶されたあの水曜日の時間に少しだけ浸るためだ。
 薫は心のどこかで、扉の向こうに彼がいないことを願っている。もう一度関われば、その時間にもっと浸りたくなることをわかっているから。

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