水曜日の薫りをあなたに
第2章 約束の香り、消えるまで
真鍮製の取っ手を掴み、ゆっくりと扉を引いて中に入る。カウンターの奥から「いらっしゃい」と声をかけてくれる店主。
開店直後の店内には客が一人だけいた。あの男ではない。黒いスーツを着たおそらく常連のその男は、薫が知る限りいつも入口側の端の席に座り、ウイスキーのロックを黙って飲んでいる。威厳あるその姿はまるで店の用心棒だ。
「薫さん、こちらへどうぞ」
店主がいつもの特等席を勧めてくれた。カウンターに並ぶ十席のうち、中央二席の左側。
あの日、あの男はその右隣にいた。今は空席のそこを通り過ぎ、薫はスツールに腰かける。
「なににしましょうか」
「うーん……やっぱりカルーソーかなぁ」
「かしこまりました」
答えた店主は、ふと、意味深げなセクシースマイルを浮かべた。完璧すぎてかえって不気味だ。
「キョウさんは今夜は来ないそうですよ」
「え? キョウさん?」
「先週、薫さんの隣に座っていた方です」
「えっ、あ、そうですか……」
いきなり投下された爆弾に声がうわずった。店主はそんな薫の心を見透かすように、くっと口角を上げる。そして言った。
「香水の香で、キョウ、と読むのだそうです」