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幸せな報復

第10章 通勤

 つまり、被害届は出していない、と見ていい。では、なぜ、一人で電車に乗らないでいたのか。何か別の理由があって自分を探していた。だから、自分を追い掛けてきたのだ。
 階段の欄干の陰に隠れていた彼を彼女が「見ーつけた」と言っていたことを思い出した。あの声質はうれしさに満ちた弾んだ声のような気がした。あのまま、彼女の言葉の続きを聞いていたらどうなっていたか。あの明るい声の意味は何か。彼は想像した。
「見ーつけた。あなた、あんなことして許されると思っているの? ねえ? これからの、あたしとあなたのことを話し合わないとね」
 彼女はそう言うと、彼の腕をつかんできた。女性の割に握力が強い。事件当日、握られた手首が痣になるほど彼女の力は強い。彼女は建設現場で働くことを考え、日々、肉体を鍛えていた。彼の腕を握りながら彼女が言う。
「明日の朝…… 100万円用意しなさい」
 彼女は手にしていたスマホを彼の顔の前に掲げた。カシャ、っと軽い音が鳴った。
「ふふふ、もう、逃げられないわ。今、あなたの写真を撮ったから…… 逃げたらネットにさらすわ」
 彼はその場面を想像して震えた。そして、次を想像して言った。
「100万円ですべてを忘れていただけるってことですか?」
「そうよ、若い子の体を散々なで回してさ、慰謝料ね…… メトロセンター内にコッテリヤっていう店があるからそこで明日の朝、お金を持って来て。逃げたらこのスマホの写真をさ・ら・す……」
 彼は自分で彼女との会話を想像しながら展開の恐ろしさに震えた。やはり仁美に似てはいるが鬼のような悪女だ。彼は自分の過ちを差し置いて彼女のことを悪女呼ばわりした。しかし、悪女でなかったら、と言う考えが湧き上がった。彼はまた想像した。
 100万円の札束を持った彼はコッテリア葛西店の玄関に入り彼女を探した。
「ここーー」

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