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幸せな報復

第10章 通勤

 畑野勘太郎は都営新宿線一之江駅のホームに立っていた。葛西駅から八丁堀まで東西線で通勤時間が30分ほどだった。それが今では倍の1時間になってしまった。その原因は彼が電車内で若い女性に痴漢したため、その痴漢した女性から逃げるためだ。彼の言い分は無実の罪で犯罪者になりたくない、だった。しかし、客観的に見て、彼の場合、えん罪とは違う。事実、痴漢をしているのだから。つまり、彼には電車内で女性の手を握るという痴漢をしたことを理解できていない。彼の脳内では女性を仁美と思って手を握ってしまった。つまり、勘違いという単純なミスだ。だから、できればもう一度会って痴漢ではないと彼女に説明したいとも思っていた。
 そこまでその女性にこだわるのは、妻の仁美を交通事故で亡くしてから20年以上好意を持てる女性と出会わなかったから、あの朝、仁美と同じ人間に会ったと思い込み、正常な精神状態ではなくなってしまった、と言う主張だ。
「あの朝、アクシデントがなければ機会を見て彼女にデートを申し込んでいた」
 彼は心中で何度もこの思いを繰り返し、痴漢をしたのではないと自分に言い聞かせている。しかし、どんなに取り繕っても彼が相手の女性に乗り合わせた電車内で痴漢した行為は歴然としていた。
 後から正式に交際を申し込みます、と言っても相手は許す訳がない。そんな自分に都合のいい話は通用しない。彼自身も客観的に考えても結局は痴漢をしたという事実に行き当たる。
 彼にとって不本意な痴漢事件から1週間が経過した。彼は事件の翌朝のことを思い返した。彼女に駅で見つけられ通報されるのが怖くて必死に逃げてしまった。しかし、彼は記憶をたどると、逃げたとき「待ってぇー」と彼女が叫んだ気がした。彼はこの言葉にどんな意味があったのか、考えた。
「待ってぇー、ちゃんと罪を償いなさいよぉー」と、彼女は言おうとしたのか。当然な流れである。しかし、それなら駅員といるのが自然だろう。駅で「痴漢にあった」と被害届を出して駅員と一緒に張り込んでいるのが自然ではないか。しかし、彼女は一人でいた。

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