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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第1章 柳家の娘

柳家の娘

 大勢の人だかり、様々な料理をこしらえて売る各々の露店から流れてくる雑多な匂い、かしましく客を呼び込む物売りの声、それらのものが混じり合った市(いち)の雰囲気は一種独特だ。
 しかし、春(チユン)泉(セム)はそのいかにも下町といった市場の賑わいがけして嫌いではなかった。
 乳母の玉彈(オクタン)などは、蒸し饅頭や揚げ菓子といった食べ物の匂いが混じり合った空気を嗅いだだけで、胸が悪くなって吐きそうになってしまうといつも市へ来るのを嫌がる。
 それでも、仕える主人が市へ行きたいと言えば、仕方なくついてはくるが、大抵、一刻でも早く屋敷に戻ろうと春泉をせっつくのであった。
「お嬢さま(アガツシ)、お嬢さま、お待ち下さいませ」
 今も少し離れた後方から玉彈の恨めしげな声が追いかけてくるのにも頓着せず、春泉はひたすら前だけを見つめて真っすぐに突き進んでゆく。
 ふと、春泉の脚が止まり、その視線がとある小さな露店に向けられた。
 ここは都漢(ハ)陽(ニヤン)の町の一角、似たような店が往来の両端にひしめいている市である。
 今、春泉はその一つの前に立ち止まり、食い入るように店先に並んだ品物を見ている。
 それは何ということはない小間物屋であった。春に開く薄紅の桜の色を纏う蝶を象ったノリゲが数個ほど並んでいる。
 見たところ、紅(ローズ)水晶(クオーツ)だろうか、蝶の下には長い房飾りがついていて、やはり同色に染められている。
 春泉は魅せられたかのようにそのノリゲをいっとき見つめていたかと思うと、おずおずと手を伸ばした。そっと掌(たなごころ)にのせ、うっとりと眼を閉じる。
 今の季節は冬ではあるけれど、この春色に染まったたおやかな蝶を見ているだけで、心に優しい春風が吹き込んでくるような、やわらかな気持ちになる。
 春泉の父柳(ユ)千福(チユンボク)は都でも名の轟いた豪商である。千福は宝飾品を取り扱う小間物屋であり、その一人娘として育った春泉は贅を凝らした品々には物心つく頃から見慣れているはずだった。
 いや、かえって豪奢な簪(かんざし)、腕輪、指輪は見慣れている彼女だからこそ、その素朴な作りのノリゲに眼を止めたのかもしれなかった。

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