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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第6章 祝言の夜

 そう言いながらも、〝ツ〟と右頬を押さえ呻く秀龍に、春泉は思わず叫んでいた。
「大丈夫ですか? 痛むのですか?」
「い、いや。これしきのかすり傷、たいしたことではない。それよりも、そなたこそ、痛かろう。こんなに腫れてしまって」
 秀龍は心から申し訳なさそうに言い、春泉の手首に刻まれた紅い痕跡を指でさすった。
「私はむしろ、この猫に感謝しているくらいだ。小虎がここにいたからこそ、私はいつもの自分を取り戻すことができたのだからね」
 そう言ってふわりと微笑む秀龍の整った面からは、既に切迫したような、思いつめたような表情は消えている。
 それにしても、この方は何と優しげに笑うのだろう!
 この時、春泉の心で何かが音を立てて弾け、止まっていた刻がゆっくりと動き出した。まるで蓮の種が音を立てて実を破り、外へと飛び出してゆくように。彼女を取り巻く時間は、二年前、光王の差し出した手を拒んだあの瞬間から、ずっと止まったままだった。
飛び出した種は、芽を出し、やがて花開かせる。
 だが、まだ春泉自身は、そのことに気づいてはいない。
 その時、春泉は夜着の前がはだけたままなのを改めて知った。真っ赤になって慌てて衿許をかき合わせた春泉を見て、秀龍が小さく笑い。そっと手のひらを差し出した。
「立てるか? そろそろ本当に寝むとしよう。今日はそなたも色々と忙しい一日で、疲れただろう? 同じ婚礼衣装でも、女の格好は重いし大変だからな。その点、男は楽だよ」
 恐らく、この手に掴まって立ち上がれば良い―、そういうことだったのだろうが、春泉はとうとうその手を取らなかった。
 取れなかったのだ。最初から幸せなど諦めていた。いつも不仲な両親を間近で見てきたから、それが当たり前だった。
 望んで手に入らなければ、空しいだけ。愛情を抱いたら、相手にもつい同じだけの愛情を返して欲しいと願うようになる。
 でも、必ず自分が望むようになるとは限らない。ならば、初めから望まなければ良い、相手を好きにならなければ良い。
 並んだ絹の夜具に入ってから、春泉はなかなか寝つけず、幾度も寝返りを打った。
 荘厳な中で行われた祝言、つい今し方の秀龍の思いがけない一面。今日一日の様々な出来事が次々に甦ってきて、余計に眠れない。身体はひどく疲れているのに、意識だけは妙に冴えている。

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