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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第7章 天上の楽園

「そう―だったのですか」
 あの夜、春泉が牡丹の花を熱心に眺めていたことを、秀龍はちゃんと記憶していた。
 自分は秀龍の〝妻〟にはなれないと言ったのに。偽りの妻、形だけの妻でいたいと、良人である彼にとっては最大の侮辱であり、裏切りの言葉を吐いたのに。
 秀龍はあの夜の二人のやり取りを忘れなかった。春泉にとって、牡丹を見た後の出来事は、忘れてしまいたいものではあったけれど、あの日、秀龍の心を傷つける心ない言葉を口にしてしまったにも拘わらず、秀龍が思いがけない気遣いを見せてくれたことは嬉しかった。
 そう、あの時、傷ついたのは自分だけではない。秀龍もまた、傷ついたのだ。そして、彼の心を傷つけたのは他ならない自分だ。
 と、春泉は思わず〝あ〟と声を上げた。
 最初、それは鮮やかな黄色に見えた。あの夜と同じ、細やかな模様の入った薄い羽を忙しなくはためかせ、ひらひらと眼前を横切ってゆく。
「秀龍さま、あそこに蝶が」
 ほっそりとした指先の向こうを秀龍が見た時、蝶を春の陽光がふわりと包み込んだ。光の輪に包まれた小さな蝶は、その刹那、光り輝く黄金の蝶へと見事なまでの変貌を遂げた。
 〝おお〟とも何とも形容のしがたい声が秀龍の口から洩れる。
「黄金の蝶は真にいたのだな。やはり、そなたの申すとおりであった」
 金色の蝶が光の粉を、黄金の粒を撒き散らしながら、咲き乱れる花の間を飛び回る。
 それは、さながら一幅の名画にも勝るとも劣らない眺めであった。
 腕の中の小虎が急にモゾモゾと動くのに、春泉は〝駄目〟と小さな声でたしなめた。小虎が蝶を追いかけ回したりすれば、折角の夢のようなひとときが潰えてしまう。
 大好きな女主人に叱られて、小虎は慌てて元の場所に収まり大人しくなった。
 花たちの上を四月の風が優しく撫でてゆき、春泉の額に落ちた前髪がわずかになびく。
 二人は金色の蝶を並んで眺めた。傍らの秀龍と同じ刻を過ごしているという実感が俄に春泉に迫ってきた。何か大切なものを分かち合っているような。

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