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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第2章 ひとりぼっちの猫

  ひとりぼっちの猫 

 春泉はこれで幾度めになるか知れぬ吐息を洩らす。乳母の玉彈と共に屋敷に戻ってきて以来、自分の房内を訳もなくうろうろと歩き回ったり、座椅子に座ったかと思うと、悩ましい溜め息をついたりと、万事がこの調子である。この意味もない行為をずっと繰り返しているのであった。
 座椅子(ポリヨ)に座った春泉は、溜め息をつき、手鏡を覗き込む。表に牡丹の花の意匠が刻まれたその鏡は、春泉のお気に入りである。確か、父が清国からの土産にと持ち帰ったものだ。
 黒塗りの地に螺鈿細工で花と蝶を描いているのだが、何でも清国の皇帝の姫君もこれと全く同じ物を愛用していると聞いた。
―儂(わし)にとっては、春泉は異国の皇帝の姫などより、よほど大切な宝物だからな。
 我が娘が皇帝の姫と同じ物を使うとことについて、千福は随分と機嫌が良さそうだった。
 外に洩れれば、不敬罪にも問われそうな畏れ多いことを平然と口にし、上機嫌で酒を飲んでいたものだ。
 春泉がこの鏡を好んでいるのは、何も清国の姫君の愛用品と同じだからというような単純な理由ではない。ただ、その繊細な意匠が気に入ったからなのと、丁度、彼女の小さな手にもしっくりと馴染みやすい使い易い大きさだったからである。
 父千福は常日頃から
―金さえあれば、この世の中は何もできないことなどありはしない。
 と言っている。
 確かに、ある意味では真理を突いているのかもしれないが、かといって、それがすべてではないだろう。
 もし父の言葉が真実であれば、母が父に隠れて若い男との情事に夢中になる必要はない。父は母に不自由のない生活をさせ、母は父から与えられた金を湯水のごとく使い、ひと月に何十着というチマ・チョゴリを仕立てさせ、身につけきれないほどの装飾品を買い漁っている。
 春泉だけは、母のその無駄に金を使うのが何のためなのかを知っていた。恐らく、母は淋しいのだ。父に顧みられぬ心の隙間、空しさをそうやって浪費と若い恋人で埋めようとしている。
 しかし、いかに美々しい衣装に袖を通し、どれほどの男と褥を共にしようと、母の空しさは埋められない。

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