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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第9章 哀しい誤解

 何より、彼女の信頼を裏切らなくて、良かった。今夜、ふとした拍子に彼に見せた春泉の仕種はとても可愛らしく、彼に向けられたあの純粋な黒い瞳は、少なくとも今夜は彼が春泉の厭がることを無理強いしたりはしないと信じ切っていた。
 と、脚許で何かが引っ繰り返り、秀龍は〝当代一の俊英貴公子皇秀龍〟にはおよそふさわしくない悪態をついた。
「何だ? これは」
 見れば、床に引っ繰り返った茶器の傍に、小卓があった。例の春泉が置いていった小卓だ。辛うじて引っ繰り返らなかった小卓の上には、皿に黄粉餅が山のように積んであった。
「黄粉餅―」
 秀龍は、腑抜けたようにその場に座り込んだ。
「もしかして、私のためにわざわざ黄粉餅を?」
 応えなど、考えなくとも判る。春泉がどうして自分の好物を知っているのかまでは判らないが、これは明らかに他ならぬ秀龍のために春泉自身が運んできたのだ。
「春泉!」
 秀龍は弾かれたように立ち上がり、部屋を飛び出した。息せききって春泉の部屋まで走ってきたものの、既に春泉の部屋の灯りは消えていた。
 寝ているのを起こすのも可哀想なので、そのまま回れ右をして自分の部屋へと戻った。
 まあ、良い。明日の朝いちばんに、春泉の許を訪ねて謝ろうと考え直した。
 人間とは現金なもので、悩み事がなくなれば、俄然、やる気と集中力が湧いてくる。それから、秀龍は溜まった書類をすべて暁方までかかって片付けた。
 そのお陰で、布団に入ったのは夜が白々と明け初める頃になってしまい、次に目ざめたときは出勤時刻寸前という、何とも冷や汗もののことをしでかしてしまったのだ。
 朝飯も食べず屋敷を飛び出した秀龍は結局、その朝、春泉を訪ねる余裕はなかった。
 そのことを、秀龍は後に、どれほど後悔することになったか―。

 同じ日の夕刻。
 秀龍はまたも翠月楼にいた。こうして、三日にあげず翠月楼に立ち寄るのは、ここ半年ばかり―香月の妓生としてのお披露目以来の彼の日課となっている。それは男の身でありながら、その重大な秘密を隠して苦界へ飛び込んだ義弟の様子をそれとなく見守るためであった。

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