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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第9章 哀しい誤解

「待て、誤解だ」
 普段は冷静そのものの秀龍が慌てふためいているのは、こんなときでなければ、見物だったろう。
「お願いだ、春泉。私の話を聞いてくれ!」
 背後で叫び声が聞こえてきたような気がしたけれど、春泉は頓着せずに走り続けた。 
 もう、何も聞きたくない。今更、言い訳なんて聞いて、何がどうなるというのだろう。余計に空しくなるだけだ。
 涙が溢れて、走っているうちに風に乗って散っていった。

 本当は皇家の屋敷には二度と帰りたくなかったけれど、オクタンのこともあるし、そういうわけにはゆかなかった。春泉は一旦、皇家に戻り、当座に必要な身の回りのものだけを風呂敷包みに包み、オクタンと共に家を出た。
 最初、一部始終を聞いたオクタンは、腰が抜けるほど仰天していた。話を聞くなり、
―まさか、あの若さまが妓生と―。
 と、絶句した。
 春泉は大切なことを黙っていたのを詫びた。オクタンは辛そうな顔をしていたが、春泉が屋敷を出たいと言うと、何も言わずに荷物を纏めるのを手伝ってくれさえしたのだ。
 どこから手配してきたのか判らないが、オクタンが女輿を用意してくれ、春泉はそれに小虎、素花二匹の猫と一緒に乗り込んだ。
 オクタンは徒歩で輿の傍に付きそうのだ。輿の担ぎ手の下男の顔に、かすかに見憶えがあったところを見ると、隣家の夫人の厚意で借り受けたようだ。隣の大きな屋敷は吏曹判書(イジヨパンソ)のもので、オクタンはその屋敷の女中頭と懇意になった。どうも女中頭が夫人に頼み込んだらしい。
 オクタンが女中頭から聞く限り、隣家の奥方は使用人たちにも鷹揚で、皇家の使用人たちは皆、隣家の家僕たちをしきりに羨ましがっているという。
 町外れの小さな屋敷にやっと到着した時、春泉はずっと堪えていた涙がどっと溢れた。
 むろん、出迎えた母が嫁いだばかりの娘のの急な帰還に愕かないはずがない。
 嫁ぐ前の日まで使っていた居間で泣いていると、母チェギョンがチマの裾を蹴立てるようにして廊下を急ぎ足でやってきた。
「春泉、これは、一体、どういうことなのですか?」
 悲鳴のような声に、春泉は泣き濡れた顔を上げ、紅く充血した眼で母を見た。

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