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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第11章 男装女子

「旦那(ナー)さま(リ)」
 言い寄られた男の方も満更ではなさそうな様子で、二人は絡み合うようにして女の見世へと入ってゆく。
 こうして、色町の空しく華やかな夜の幕が上がるのである。

 一人きりになった室で、香月はまだ残っている銚子から手酌で注ぎ、盃を干す。
 銚子を十数本たて続けに空けてすら酔わない彼のこと、たった一本飲んだだけで、酔えるはずもない。だが、今はやけに酔いたい心境だった。
 よく何もかも忘れるために酒に溺れるなどと言うけれど、あれができる人は心底羨ましいと思わずにはいられない。
 香月の場合、幾ら酔いたくて飲んでも、よほどのウワバミなのか、どこまで飲んでも盃を重ねても、酔うということが絶対にない。かえって、飲めば飲むほど、意識は冴え渡り、頭の芯がはっきりとしてくる始末だ。
 九歳で両親や、兄、住んでいた屋敷から両班の子息という身分もすべて失った。その瞬間から、彼は世間という無情な世界に放り出され、生きてゆかねばならなかった。まだ幼かった彼があの悪夢の夜―母や兄、使用人に至るまで惨殺された日に助かったのは、乳母の咄嗟の機転のお陰だった。
 申家を襲ったあの惨劇の後、幼い英真とその乳母の亡骸だけがついに最後まで見つからなかった。二人はゆく方不明ということで事件は片付けられ、その存在は呆気ないほど容易く忘れ去られた。最早、申英真が生きていると信じている者は一人もいないだろう。
 だが、あの日、ただ一人生き残ったのは、果たして自分にとっては幸せだったのだろうか。その後、彼は幾度も自問自答した。
 むろん、乳母には感謝している。乳母はその後も自分を養うために、身を粉にして働き続けた。流行病(はやりやまい)で良人と生まれたばかりの我が子を失っていた乳母は、彼を我が子のように慈しんだ。
 すべてを失った後、英真は乳母と共に町外れの粗末な一軒家に暮らし、乳母は場末の酒場で仲居として働き、彼は八百屋の使い走りとして働き、わずかならがらでも家計を支えた。周囲は、誰もが乳母と英真を実の母子だと信じて疑っていなかったようだ。
 しかし、その乳母も三年後、過労が元で亡くなった。まだ三十二の若さだった。可哀想に、乳母は働き過ぎで、身体を壊してしまったのだ。乳母が死んでしまって、彼は今度こそ天涯孤独になった。

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