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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第7章 第二話・其の参

     《其の参》

 それから、ふた月余りが過ぎた。
 神無月に入り、尾張藩上屋敷の庭の樹々も紅く色づく季節になった。いつしか季節はうつろい、江戸の秋は深まっている。夜毎にすだく虫の音も季節の移り変わりを告げているかのようだ。
 そんなある日、孝俊は、宥松院から呼び出しを受けた。奥向きにある仏間に来るようにと家老碓井主膳を通しての伝言を受け、孝俊は仏間に赴いた。仏間とはいっても、ゆうに十畳はの広さはある座敷の上方に大きな机が安置され、歴代藩主の位牌がズラリと並んだ様はなかなか壮観というか、ある種圧倒されるほどの雰囲気である。
 ここはいつも香華が手向けられ、線香の香りに満ちている。毎朝、藩主孝俊もここの仏間に来て、正室である美空と共に先祖の位牌に手を合わせることが毎朝の慣例となっている。これは江戸城大奥での毎朝の行事に準じたもので、〝御仏間拝礼〟と呼ばれる将軍及び御台所が大奥の御仏間で祖先の霊に黙祷を捧げるものである。この場合は、将軍夫妻だけではなく、御年寄以下、お目見え以上の奥女中一同が皆勢揃いして歴代将軍の位牌に拝礼する。
 もちろん、尾張家では、そこまで大仰なことはせず、藩主夫妻が揃って拝礼するだけだ。
 奥向きには仏間だけではなく、藩主が渡った際に居室とする〝御休息の間〟もある。何ゆえ、宥松院がわざわざ仏間を会見の場に指定してきたのか、孝俊はその意図を計りかねた。もとより気は進まなかったけれど、だからこそ余計に断るわけにはゆかない。
 孝俊は突如として自分を呼び出した義母の真意を訝りながらも、仕方なく奥向きに脚を踏み入れた。
 磨き抜かれた廊下を重い脚取りで進む。仏間が近付くにつれ、孝俊の心はますます沈んだ。幼い孝俊をいじめ抜いた義母である。
―賤しい湯殿番の子。
 子どもらしい他愛のない悪戯をする度、そう言って睨み、頬をぶたれたことは一度や二度ではなかった。時には父孝信には内緒で、〝お仕置き〟と称して食事抜きにされたこともあるのだ。宥松院に拘わる想い出は何一つとして心躍る愉しいものではなく、むしろ哀しいものばかりだった。

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