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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第7章 第二話・其の参

 宥松院は取り立てて美人というわけではない。顔自体は並の器量であるが、何にしろ色が黒かった。これ女性としては致命的で、白粉でごまかしてはいるものの、やはり地の黒さはどうしても隠し切れていない。しかも若い頃ならまだ見られても、既に四十六を過ぎた現在では、塗りたくった白粉がかえって膚の黒さを強調しているとは皮肉なことだ。
 宥松院は亡き父孝信よりは一つ上だった。
「して、本日、私にお話がおありとは一体、いかなるご用件にございましょう」
 この女の猿芝居に付き合ってやるつもりなど、さらさらない。用事があるのなら聞くだけ聞いて、さっさと切り上げたいというのが本音だ。
「ま、随分とせっかちでいらっしゃるのですね。ほんに、子どもの頃とお変わりない」
 宥松院の言葉には、嘲笑するような響きがある。
 その言葉に、孝俊の心にはるかな遠い日が甦った。あれは、まだ孝太郎と呼ばれていた頃、確か五、六歳になったばかりか。
 ある日、お八ツの時間に柏餅が出た。高坏に盛られたそれが兄と孝俊の前に並べられるやいなや、孝俊は喜び勇んで手を伸ばした。
 傍らで見ていた宥松院は、その様を見て激怒した。
―何とお行儀の悪い。そのような辛抱のできぬことでは、尾張徳川家の名に傷が付きます。せっかちなのにも程がある。まるで、下々の子のようではありませぬか。流石は下賤な女の腹から生まれた子だけはありますね。
 そう言って、手をピシャリと叩かれた。
 その一部始終を五つ年上の兄は、大人びた顔に辛そうな表情を浮かべて見守っていた。
 それ以来、孝俊は大好きだった柏餅が大嫌いになった。
 宥松院は、あのときのことを指して言っているのだ。
 孝俊の身体がカッと熱くなる。幼き日、幼い心に刻まれた今なお消えぬ屈辱がありありと甦った。
「私は湯殿番の子にございますゆえ、せっかちにもなるのでございましょう。折角、義母上のご薫陶を頂きながら、どうやら、この性分は直らなかったようにござります」
 孝俊はしれっと言い返し、宥松院の顔を真っすぐに見据える。
 これには宥松院も言葉に窮したようだ。悔しげに顔を歪めたが、それも一瞬のこと、すぐにその表情は優しげな笑みの下に消えた。

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