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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 言っている中に烈しい感情が胸の中で荒れ狂い、美空は両手で自分の腹部を思いきり叩いた。
「こんな子どもなんて、要らない! 私が好きになった男は、尾張のお殿さまなんかじゃない。ただの、小間物売りの孝太郎って男(ひと)なんだから」
 孝太郎が顔色を変え、美空に駆け寄る。
「止めろ、止めてくれ。腹の子に罪はない。この子は俺たちの大切な子じゃないか。もし、男の子なら、いずれは次の尾張藩主となる子だぞ」
 その何げない孝太郎のひと言は、美空の心を鋭い針のように刺し貫く。
―もし、男の子なら、いずれは次の尾張藩主となる子。
「い、いやよ。この子は絶対にあなたには渡さない。この子は私が一人で生んで一人で育てるの。尾張なんかには連れてゆかせないから」
 美空は泣きながら叫んだ。
「一人で生んで一人で育てるって、お前、俺と別れる気なのか?」
 孝太郎が食い入るような眼で見つめる。
「幾ら何でも、長屋で生まれ育った私と尾張藩のお殿さまなんて、釣り合うはずがないもの。本当なら、あなたは私とは住む世界が違う、神さまが起こしたほんの気紛れで出逢ってしまったけれど、あなたは私にとって遠い雲の上の人のはずよ。そんなあなたには、到底ついてゆくことなんてできないわ」
 美空は孝太郎の烈しいまなざしからそっと眼を逸らした。
 今、漸く一つの疑念が解けた。
―玉ゆらに 昨日の夕 見しものを 今日の朝に 恋ふべきものか
 孝太郎から初めてあの歌を聞かされた時、何ゆえ、一介の小間物売りにすぎない彼が万葉集や柿本人麻呂などという、いかにも難しげな歌集や人の名を知っているのだろうと訝しく思ったけれど―、殿さま、尾張藩主の公子であれば、その程度の教養を備えているのは当然のことだ。
 御三家といえば、初代将軍家康公が将軍家に世嗣がおらぬ場合のお控えさま的立場として創設した分家の家柄、その中でも殊に尾張徳川家の代々の藩主は従二位大納言の官位を朝廷から賜り、筆頭の格式を誇る。
 仮に将軍に後嗣たる男児が誕生せぬときは、御三家(水戸家は代々副将軍の地位につくので、これには入らない)から宗家に入って家督を継ぎ将軍職を継承することになる。

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