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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 そんな高貴な身分の人と江戸の片隅のうらぶれた長屋で生まれ育った我が身では、あまりに生きる世界が違いすぎる。
―玉ゆらに 昨日の夕 見しものを 今日の朝に 恋ふべきものか―
 思えば、たった一瞬で孝太郎に惹かれ、恋に落ちた自分だった。あの歌のように、逢ったばかりの男に強く魅了され、一途に今日まで恋い慕ってきたのだ。
 今更ながらに、あの歌が懐かしく思い出されてくる。
 あの日、孝太郎と再びめぐり逢わせて下さったことを、神仏に心から感謝した。
 しかし、今はこの男と我が身を引き合わせた宿命を呪わずにはいられない。
「―ごめんなさい。私、あなたについてゆくことはできません」
 小さな声で告げた美空に、孝太郎は大きく眼を見開く。
 その整った面には、信じられないといった表情が浮かんでいる。
 別離を告げられた孝太郎よりも、告げた当人の美空の方がよほど傷ついているような表情をしている。そのことに、美空自身は全く気付いていなかった。

 その二日後のこと、美空は木戸番小屋の
松(しよう)兵衛(べえ)の住まいから家までの道をぼんやりと歩いていた。といっても、松兵衛の家は二軒隔てた隣で、長屋の木戸口に最も近い左端の一角に当たる。
 もう六十に手が届こうかという老人で、偏屈で人付き合いの悪いことで知られていたが、意外に子ども好きで長屋の子どもがしょっ中出入りしている。住まいの軒先にちり紙や半紙、手ぬぐいなどといった、ちょっとした細々とした日用品を並べて売っている。
 その店番をする傍ら、木戸番を兼ねているのだ。この松兵衛には神田明神下の方に娘夫婦が住んでいると聞くが、娘婿との折り合いが悪しく、松兵衛は別居しているらしい。松兵衛が幼い子どもたちを可愛がるのも、ひとえには離れて暮らす愛盛りの孫たちの面影を他所の子に重ねているのかもしれない。
 今日も、美空が訪ねると、松兵衛の店には長屋の子ども数人が群れ集まっていた。そろそろ桜の花も綻ぶが、ここではまだ焼き芋を売っていて、よく焼けた芋を紙に包み、子どもたちに手渡してやっているところだった。

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