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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 松兵衛が子どもたちから金を取ることはない。大抵、ただで子どもらに飴や芋、駄菓子などを与えてやるのだ。親の方もそのことをよく心得ていて、折に触れては松兵衛の許に多めに作った惣菜などを届ける。
 長屋では、いわば、そういった物々交換的な関係がほどよく成り立っている。
「じっちゃん、ありがとう」
「じっちゃん、ごちそうさま」
 子どもたちが口々に礼を言いながら、芋を持って駆け出してゆく。その後ろ姿を眼を細めて見送り、松兵衛はぶっきらぼうに訊いた。
「何か要り用かね?」
 全く愛想のない訊ね方ではあるが、これは何も機嫌が悪いわけではなく、これが松兵衛のごく普通の姿なのだ。それを長屋の連中なら誰でも知っているから、特に気にしない。
 美空がちり紙と手ぬぐいをと言うと、松兵衛は憮然とした顔で訊ねてくる。
「腹の子は大事ないか? 春先とはいっても、まだまだ朝晩は冷えるからな。脚腰は冷やさねえように気ィつけな」
 美空の懐妊はもう徳平店の人々の誰もが知るところとなっている。お喋りのお民が触れ回った結果ではあるが、松兵衛までがこうして話題にするのには愕いた。
 だが、無骨な老人が実は美空の身体のこと、お腹の子のことまで気にかけていてくれたことに、美空はじんわりと心に温かなものがひろがるのを感じた。
「わしの下の娘も二番目の子を身ごもってた最中に、腹の子が流れて、おまけに娘まで後を追うように亡くなっちまった。雨に濡れちまって、どうもそれが良くなかったらしい。身体を冷やすのは良くねえ。お前も十分気をつけな」
「はい」
 美空は頷くと、頭を下げて木戸番小屋を後にする。
 松兵衛は若い時分は塩売りをしていたという。そう言われてみれば、六十を目前にしているとはいえ、松兵衛はいまだにかくしゃくとして、赤銅色の膚をしている。若い頃から苦労に苦労を重ねて男手一つで育て上げた娘の亭主は下駄職人だが、放蕩者で、ろくに仕事もせず賭場通いに明け暮れているとか。

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