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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 頑固者で融通のきかぬ松兵衛に、女房は愛想を尽かし、三つと一つになる二人の娘を置いて家を出ていった。そんな松兵衛であってみれば、女房である娘に働かせて自分は遊び暮らしている娘婿は許しがたい存在なのだろう。松兵衛の娘は、近くの一膳飯屋に通いで女中として働きに出ており、亭主との間には三人の子がいた。
 周囲からは頑固だ無愛想だと何かと悪く言われることの多い松兵衛だけれど、その皺深い細い眼は数々の出来事をつぶさに見てきたのだろう。
 その中には嬉しいことよりも辛いことの方が多かったかもしれない。 あの刻まれた皺の一つ、一つに松兵衛の人生の哀歓が秘められている。そう思うと、俄にあの無口な老人が身近に思えてくるのだった。
 松兵衛の辿ってきた人生を考えていると、どうしても、今の我が身の境涯に思い至ってしまうのは、いかんともしがたい。
 この二日間、孝太郎とはずっとよそよそしい状態が続いている。表面上は大きな変化はないのに、二人の間には大きな溝ができた。
―もう本当に今度こそ自分たちは別れるしかないのかもしれない。
 そんな風に思えてならない。
 孝太郎についてゆくことができないと美空が考える以上、これから先も孝太郎とずっと一緒にいることは不可能だ。
 別れは、いずれ近い中にやってくる。
 孝太郎の父、先代尾張藩主孝信の葬儀はひと月後に大々的に行われるという。
 既に密葬は済ませているが、御三家筆頭の当主ともなれば、葬儀にも色々と準備があって本葬までには刻を要するものらしい。その辺も美空のような庶民の常識とは全くかけ離れている。
 当然、嫡子であり世継である孝太郎はひと月後の父の葬儀には出席せねばならず、それまでには尾張へ戻るのだろう。
 が、今のところ、孝太郎は何もなかったかのような顔で朝になれば荷を背負って行商に出かけている。正直言って、美空は良人が何を考えているか判らない。いつもどおりの穏やかな、ありふれた時間が流れていれば、あの出来事―自分の惚れた男が実は尾張藩主だったなぞという話はそれこそ冗談であったとしか思えない。
 いや、本当にあの二日前の早朝のやりとりが悪い夢であれば、荒唐無稽なお伽話であったらと思わずにはいられない。

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