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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第4章 其の四

 その清楚でどこか神秘的な香りは、何とはなしに雪を連想させる。もちろん、雪には香りなどないのだが、その香りの爽やかさと水仙の花びらの穢れなき白が雪の印象と繋がるのかもしれない。
 そういえば、随明寺の絵馬堂前で孝太郎に貰った櫛にも水仙の花が描かれていた。
 思えば、あの櫛が二人の縁(えにし)を結び合わせのだともいえる。尾張藩邸に迎えられるに当たり、何も持参する必要はないと孝太郎からも言われたけれど、あの蒔絵の櫛だけは数少ない手荷物の中にそっと忍び込ませている。
 刻が経つにつれて、舞い降りてくる花びらの数はあまたになってくる。雪のせいか、江戸の町全体を静謐な空気が包み込んでいるようだ。
 降りしきる雪は花嫁御寮の身に纏う白無垢のよう。自分は今日この日、改めて徳川孝俊という男の妻になるのだ。その門出の日を浄らかで真白(ましろ)な雪が寿いでくれるかのようにも思える。

 玉ゆらに 昨日の夕 見しものを
    今日の朝に 恋ふべきものかは
 
 心の中で良人から教えられた柿本人麻呂の歌を口ずさむ。その中に秘められた想いの強さ、覚悟の重さ、厳しさを噛みしめる。
 孝太郎という小間物売りではなく、尾張藩六代藩主徳川孝俊という男の妻として、これからの生涯を生きてゆく。
 一体、その先に何が待ち受けているのかは判らない。けれど、孝俊と一緒であれば、どんな試練であろうと、乗り越えてみせよう。
 美空がいつまでも引き戸を開けているのを訝ったのか、傍らに付き添っていた奥女中が近寄ってくる。
「いかがなされましたか?」
 年の頃は二十歳過ぎの美しい女である。だが、つり上がった眼(まなこ)や能面のように表情に乏しい様は、何とはなく狐面を思わせる。品のある美貌ではあったが、どこか冷たい印象を与える女であった。
 平坦な口調で問われ、美空はかすかにかぶりを振る。
「いえ、ただ少し外の景色を眺めたくなったものですから」
 ありのままに応えると、女は美しい眉をかすかにひそめた。
「外の寒さは殊の外にございます。お腹の和子さまに障りがあってはなりませぬ」

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