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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第8章 哀しい別離

「なに、ぼうっと突っ立ってるんだよ? 困ったことがあれば、いつでもおいでって言ったじゃないか。さっさとお上がりよ」
 おさんの言葉に、八重は素直に従う。
 来客用の座敷に通された八重の前に、冷たい麦湯と冷えた屑饅頭が並んだ。
 八重は上屋敷での経緯を当たり障りのない範囲で打ち明けた。むろん、お殿さまと恋仲になっていたなどとは話せるものではないし、また、話したところで、どうにもなるものではなかった。八重が話したのは、仕えていた若君が病で亡くなったこと、若君の想い出の多すぎるお屋敷に居続けるのは辛いので、暇を取ったことだけだ。
 しかし、後者は全くの真実であった。
 実際のところ、清冶郞と共に過ごした一年の密度はあまりにも濃すぎて、八重はあのまま上屋敷にいることはできなかった。あの屋敷の至る場所に清冶郞の想い出が溢れていて、その想い出たちに押し潰され、息苦しさに窒息しそうになる。
 どこにいても、何をしていても、あそこにいる限り、清冶郞の想い出に絡め取られて、身動きもできない有り様であった。
 八重が想いに沈んでいるのを、おさんはじいっと見つめている。
 やがて、わざと八重の気を引き立てるように晴れやかな声を上げた。
「お弥栄ちゃんの気が済むまで、いつまでもここにいて良いんだよ。自分の親の家(うち)だと思って、この際、のんびりと骨休めしておゆき」
 おさんの温かい言葉に、八重は涙が溢れそうになった。言葉もなく幾度も頷く八重の肩をおさんが宥めるように軽く叩いた。

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