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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 小さいけれど、その空間だけはゆったりとした特別な時間が流れていて、いつまでもずっと浸っていたくなるような場所だ。
 ロマンス・グレーのマスターは、美月の父と同じか、幾つか若いくらいの歳だろう。チタンのメガネのフレーム越しの細い眼は優しげで、物腰もやわらかかった。
 マスターの眼尻に刻まれた皺の一つ一つに、彼がこれまでの人生で乗り越えてきた哀しみ、更には歓びが隠れているに違いない。自分の父親ほどの年月を生きてきたこのマスターに、美月は、一つの試練を乗り越えるためには一体、どうすれば良いのか、どのように立ち向かえば良いのかと訊ねてみたい衝動に駆られた。
 だが、ゆきずりのマスターにそんなことを訊ねるわけにはゆかない。幾ら優しそうで人生の酸いも甘いもかみ分けているようなマスターでも、美月が真剣に問えば、そんな話は占い師のところか人生相談所に行きなさいと忠告するだろうし、さもなければ、憐れみを込めた眼で冷ややかに見つめられて、それで終わりだろう。
 物想いに耽る美月の真後ろで、ガラスのドアが音を立てて閉まる。同時に、それまで聞こえていたユーミンの歌もふっつりと止んでしまった。
 
 このミッドナイト・ブルーの晃司の愛車は、もう十年物だという。
 美月は、運転席に座った晃司の傍らの助手席に座ると、シートベルトを装着する。この席が一体、何人の女たちの憧れる場所なのか、この憧れの指定席に座る唯一の女になりたいと望む女性は星の数ほどもいるはずだ。
 なのに、美月にとっては、その女たちの願って止まない憧れの指定席もただの牢獄でしかない。
 何故なのかは判らなかった。単に〝契約結婚〟という決め事を抜きにして考えたとしても、多分、押口晃司という男は、美月にとって嫌悪の対象にしか値しないだろう。不幸な出逢いといえば、そういえるのかもしれなかった。
 車内は存外に整えられ、掃除もゆき届いていた。男の几帳面な性格を象徴しているかのようだ。シートベルトを締め、少し走った頃、傍らからコーヒーが差し出された。
「今日は無理に付き合わせて、済まなかった。疲れただろう?」

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