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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 美月はいっそう晃司の胸に顔を押しつけた。あまりの恥ずかしさに、この場で消えてしまいたかった。
「これは押口の若旦那さま、お湯加減はいかがでございましたか?」
 ここの旅館は押口家とは古くから付き合いがあり、殊に先代の女将は晃司の父の愛人でもあった。先代の女将は亡くなって久しいが、二人の間には息子まで生まれている。現在、女将を務めるこの女性の夫にして、この宿の支配人は世間的に公表されてはいないが、晃司の歳の離れた異母兄に当たる。
 この女将は、嫁いできた人だ。父もしばしば、ここを隠れ宿として利用することから、旅館の女将初め従業員たちは晃司を父と区別して今も〝若旦那〟と呼んでいる。
 本社ビルのあるK町からも適度に離れている鄙びた旅館は、秘密の商談、会合にも利用され、押口家の一族がマスコミなどから隠れてゆっくりと静養するには持ってこいの場所なのだ。それでなくとも、政財界に強い影響力を持つ押口家の人間たちは、その動向が逐一、マスコミに眼をつけられやすい。
「ああ、とても良い湯だったよ。いつもながら、疲れも吹き飛んだ気がするね」
 晃司が鷹揚に応えると、女将は婉然と微笑む。
「それはよろしうございました」
 この辺りは流石というべきか、女将は晃司が抱いている全裸の女を見ても、眉一つ動かさず平然としている。
「お部屋の方にお床をご用意させて頂きましたので」
 立場的にいえば、女将は晃司の兄嫁に当たる。が、認知されているとはいえ、世間的に認められてもいない妾腹の兄と生まれながらの跡取りとして育てられた晃司は段違いの差があった。女将もその辺りは十二分に心得ているため、晃司に対して終始、丁重な態度で接している。
 優雅にお辞儀をして行き過ぎようとした女将の後ろから、美月は藁にも縋る想いで叫んだ。
「お願いです、私を助けて!」
 と、そのときになって女将は初めて気付いたとでもいう風に美月を見た。
「おや、まぁ、これはたいそうお可愛らしい娘さんでございますこと、若旦那も相変わらず隅に置けませんのね」
 女将が意味深な笑いを浮かべるのに、晃司は笑った。

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