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スノードロップ

第1章 こい、はじめました。

[勿忘草]

淡いピンクの装丁に、行書体でそう書かれていた。
内容は何気ない恋物語なのだそうだが、なかなか主人公の心情が丁寧かつ繊細に描かれており、胸打たれるのだそうだ。
日常を書いた物が好きな美月は、その説明だけですっかり気に入り、家路を急ぐ美月の心は、先ほど感じたむずむずを忘れる程だった。

「ただいま」

まだ誰も帰宅していない家にそう声を掛け、慣れた足取りで階段を上り、一番奥の部屋へ入っていった。
お世辞にも綺麗とは言えない本が乱雑にあちこち重なっている部屋。
このごちゃごちゃ感が落ち着くのだ。
高3になったこの年まで、本ばかり読んでいる美月には友達が多くはなかった。
なによりも読書を優先してしまうため、周りから浮いた存在だが、いじめられているわけではなく、本当にただそこにいるだけのものだった。
クラスメイトに、高橋美月はどのような人物かアンケートを取れば、恐らくは殆どの生徒が『いつも本を読んでいる、あまり話したことがないのでわからない』と答えることだろう。
本人もそれで良かった。
何故ならば、最優先は読書なのだ。
その時間は、全てを忘れられる。全てから離れて、本の世界にのめり込むことができる。
高橋美月という人物から、本の世界のひとりの住人になれるのだ。
その胸踊る感じが堪らず、つい読み耽ってしまう。
きっと今回買った本も、登場人物ではなく、第3者として楽しむのだろう。

読み初めてすぐに誰かが玄関を開けた。
母親だろうか。
そう思うだけで、上がっていた気分が急速に下降していくのがわかる。
最近母親と上手くいっていないのである。
理由はやはり読書癖にあった。
母親としては心配なのだ。交遊関係も少なく、自宅にいても本ばかり。
この子は大丈夫かとなってしまい、つい口を挟んでしまうのだ。
美月も、親の気持ちは理解しているつもりだった。
しかし唯一の趣味であり、唯一続けて出来ていることにとやかく言われるのは、釈然としない。
心配されていた進学は問題なく、地元から2駅の所の文学部に入れた。友人だって狭く深くの付き合いがあることだって知っているはずだ。
これ以上何を求められているのか、美月にはわからなかった。

読み始めた本の表紙をパタンと閉じ、そのまま目を瞑った。
トクン、トクンと心臓の脈打つ音が聴こえる。
そして閉じた瞳の先の暗闇に、あの男が浮かんできた。


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