テキストサイズ

スノードロップ

第1章 こい、はじめました。

随分と身長がある人だった。
名札には確か、『田中』と書かれていた気がする。
髪は黒くて、サラサラとしてて、程々に短くて清潔感があったな。
笑っていた顔もなかなか印象良かったけど、困った顔も嫌いではなかったな。

美月は、書店員…『田中さん』のことを一つ一つ思い出していた。
そして、目を開いた。

「…わたし、何考えてんの」

その言葉を口にした瞬間に、全身の血が頭に上ったんじゃないかというくらいに顔が熱くなる。
さっきまで、静かに脈打っていた心音も、それに伴い速度を上げる。
美月は起き上がり、大袈裟に胸の辺りを掴む。

「やばい。なんだこれ、やばいぞ」

わかっていた。
あの時のむずむずの正体。
一目見て、笑顔を見て、あの瞳をみてしまって。
わたしは落ちた。

それを自覚してしまうと、途端に美月の頭の中は田中さんで溢れ変える。
未だに早足に鳴り響く心臓。顔の熱は下がる様子がない。
何か心落ち着ける術はないかと、視線を落とす。
淡いピンクのカバーが視界に入り、無意識に口から空気が漏れた。

「…これも田中さんじゃん」

それでも話の世界に入れば、一時は現実を忘れられる。
慣れない気持ちから逃げたい一心で、再び表紙を開いた。


読み始めてしまえばあっという間だった。
主人公達のプラトニックな恋愛に、何度も息が詰まりそうになった。
そして読み終えての心境に、美月は驚いていた。
架空の人物なのに、二人が羨ましくて仕方がなかった。物語りは、王道なハッピーエンド。他者が付け入る隙もなく固い二人の絆。
作中何度も自分と田中さんに置き換えてしまう。
こんなことは初めてだった。
この短時間で、想像以上に支配されている。

「美月、ご飯できたから降りてらっしゃい」

止めどなく溢れる思いに、母親の声にようやく一時的な終わりが見えてきた。
今の美月にとっては、救いの声に変わりはなく、素直に行動に移すことにする。
悲しいかな、それが久しぶりに感じた母親への感謝だった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ