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青い桜は何を願う

第9章 かなしみの姫と騎士と









 離し難い時間は夢の跡、消えるように過ぎ去ってゆく。あれだけ待ち焦がれて愛でられて、懐かしまれる故郷の花でも、くすんだ冬を明媚に彩ったかと思うや忽ち、あまねく心魂にたとしえない愛惜を残しつつ、柔らかな春風に連れられてゆく。
 残酷な美しさに潤う花を疎んでいた、姫君の恋人も然りだ。さくらの手元に無情な酷愛だけを残して、まだ見ぬ明日の向こうへ、その姿を眩ましていった。

 さくらは莢を見送った後、潮風にそよぐ桜花の壁を見つめていた。
 空は、夜さりの翳りを仄かに受けていた。朱色のとけた黄金が、白と薄紅のグラデーションのフリルに滲んで、世界を西陽に染めている。美妙に咲き誇る花々は、今のところまだ大樹を離れる嚮後を知るまい。
 甘辛い、不思議と胸の癒える芳香は、奇妙なまでに見事な桜花の匂わすものか、それともリーシェに備わるさだめか。

 目蓋を下ろせば、否、目を開けて、幻のように艶やかな花々を見澄ましていても、天上を覆う色彩まで未だ鮮やかな碧落に見紛う。莢と歩いた白浜、桜並木、そしてここ、リーシェとカイルの秘密の園──…さっきまで、こうも暗くなかった。
 手を伸ばせば触れられた。さくらが莢に触れられたのは、たった十数分前までのことだ。たった十数分前まで、さくらは気も遠くなるほど長い歳月、運命にお預けを喰らっていたひとときを、確かに埋め合わせていたはずだ。たった一人の体温を触れられなくなる時が訪おうなど、まるで今更、悪い夢にも思えなかった。
 指先は宙しか掴まない。僅か十数分前と今、何も変わらないではないか。リーシェがカイルを失った時も、そして、彼女を失った時も同じだ。僅か十数分の時間差の内に、自分の全霊を擲っても抱き締めていたかった人を失う。僅か十数分の時間差の内に、こうもかなしい誅罰を強いられねばならないだけの罪を、さくらが、いつ犯したというのだ。

「──……」

 首にまとわるシフォンを握る。柔らかに、そっと、思い出まで泡としまいよう、さくらのともすれば妖精を捕まえる所作の指先が、極上の花言葉を備える刺繍の施されたシフォンの質感を確かめる。

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